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【天保の改革】
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歌舞伎もダメ!
特に弾圧の厳しかったのが歌舞伎――。
「諸悪の根源」とみなされ、江戸三座のうち、堺町と葺屋町の芝居小屋が江戸の外れに強制移転させられています。
同時に役者の旅興行も禁じられました。
当時200ヶ所以上あった、落語などを興行する寄席(よせ)も14ヶ所にまで減らし、演目も幕府が「よし」とした四つだけにしています。
さらには全ての出版物に検閲をかけて、風俗を是正しようと図りました。
無理やり現代に置き換えてみましょうか。
「スマホで見られるマンガやゲームは全部ケシカランものだから、制作会社は全部国外に移転しろ!
ケータイ小説や動画も全部検閲するからな!
恋愛ドラマなんてもっての他!
庶民はNHK教育だけ見てろ!!」
みたいな感じですかね。
コンテンツの質はだいぶ違いますが、江戸の庶民にとって歌舞伎や芝居、書籍の類はそのくらい身近な娯楽だったのです。
物価上昇は株仲間のせいだ!
同時並行で、忠邦は経済政策でも大ポカをやらかします。
物価高騰を抑えようとして、株仲間を無理に解散させましたのですが、こんな風に考えた模様です。
「物価が上がるのは、株仲間が流通を独占して価格を釣り上げているからだ! 株仲間を解散させてしまえば、皆自由に商売ができて、物価が下がるに違いない!」
うーむ。そんなに話が簡単だったら、誰も苦労はしないのですが……ただでさえ武士に経済政策ってのは無理ある上に、質素倹約モットーの方に任せたら、そりゃあ不景気を招くだけですね。
そもそも物価上昇の原因は、天保の大飢饉などによる農作物の不作や労働力不足によるものです。
また、株仲間などは現代でいうところの流通業も兼ねていたので、彼らがいなければ物資が生産地と消費地を行き来しにくくなります。
江戸時代の株仲間って悪徳商人の集まりだったの? 吉宗や意次が始めた目的は?
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他にも、町奉行所に値切り奉行とでも呼ぶべき「諸色掛(しょしきがかり)」を任じて、強制的に物価を引き下げさせたり、武家の奉公人や職人・日雇い労働者の給金を上げさせたりしました。
根本的な原因を追究せず、上っ面だけの処理を行う――当然、何もかもうまくいかず、市中には忠邦への怨嗟があふれました。
人返令……農民を強制送還で追い返す
農村については【人返令】を発しています。
単純にいえば「農民の強制送還」です。
貧しくて暮らしていけないから田畑を捨てて町へ出てきた元農民たちを、無理やり地元に戻して農業に戻らせるというものでした。
もちろん、新しく農民が江戸に来ることも禁じています。
彼らに対しても、当面の生活費などを出すとか、復興費用を用意したワケでもないので非常に厳しいものです。ついでにいうと、役人による農地の見回りや、全耕地の調査による年貢増まで計画していました。
……とまあ、見事に現実が見えていない忠邦でしたが、一応、スルドイこともしていました。
特に外国に対する危機意識は強く、三つの政策を打ち立てています(うまく行ったとは言っていない)。
ひとつは天保十三年(1842年)に出された【(天保の)薪水給与令】。
異国船打払令を撤回して、「外国との通商はしないけど、薪と真水の補給だけはしてもいいよ」という方針にチェンジ。
少しだけ人道的に振る舞うことによって、西洋との間に戦が起きるのを防ごう、というものでした。
ふたつめは「銚子~品川の水運ルート」を作ろうとしていたことです。
薪水給与令でやや態度を軟化したものの、もしも江戸が外国から攻め込まれた場合、各地からの海運が途絶えるおそれがありました。
それに備えて、銚子から利根川・印旛沼を経由し、そこから検見川までを繋げる水路を作り、品川まで船が通れるようにする……という計画を立てていたのではないか、と推測されています。
実際に着工したのは印旛沼の工事だけでしたが、田沼意次がやっていた干拓工事=耕地を広げる工事とは違い、「500石積みの船が行き交えるような幅のある運河を作る」というものだったので、こうした推測が立ちました。
上知令で反感買いすぎてついに失脚
そして最後に【上知令】です。
江戸や大坂近辺の飛び地を整理して、人民統治と海岸防衛をやりやすくしようというものでした。
しかし、当然のことながら、これらの飛び地にも領主である大名や旗本がいます。
彼らにとっては、飛び地だろうがなんだろうが、大事な収入源。飛び地の領民に借金をしていることもありました。
貸し手からすれば「領主が変わったら踏み倒されるかもしれない」という懸念が出てきます。
結果、上知令は武士からも庶民からも大反対され、忠邦はついに幕閣内でも孤立、失脚にまで追い込まれます。
上知令も、目的自体は悪いとは思いません。
ただ、とにかく方法がマズイ。
いくら正しい考え方でも現実ってのはそう単純ではありませんからね。
同時代では、同じように苦しい状況の中で、村田清風を抜擢した長州藩や、調所広郷らの改革(という名の強引な借金棒引き)で立て直しに成功した薩摩藩などの例もあります。
天保の改革は「忠邦が理想しか見ていなかったせいで大失敗した」と言えましょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「天保の改革」「水野忠邦」
煎本増夫 (編集)『徳川家家臣団の事典』(→amazon)