元禄14年(1701年)3月14日、浅野内匠頭(たくみのかみ)が松の廊下事件を起こし、その日のうちに切腹で亡くなりました。
後に元禄赤穂事件のきっかけとなる赤穂藩の三代目藩主で、本名は浅野長矩(ながのり)になります。
忠臣蔵系の作品では序盤で退場するため、どうしても討ち入りに注目が集まり、浅野内匠頭がクローズアップされることはほとんどありません。
しかし、こんな疑問はございませんか?
なぜ浅野長矩は吉良に斬りかかったのか。
そもそも、どんな人物だったのか――。
そんな気になるアレコレを、長矩本人の歴史と共に振り返ってみましょう。
【豆知識】
・内匠頭(たくみのかみ)とは?
・こうした朝廷の官職が武士に授けられることを「武家官位」と言い、実際に朝廷の元で仕事をするすわけじゃなく権威付け(カッコつけ)です
・家督を継ぐときに与えられる【呼び名】程度のものだと認識しておけばよろしいかと思います
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浅野内匠頭(浅野長矩)9歳で藩主になる
実はこの浅野長矩、前半生はかなりの苦労をされています。
4歳のときに父、6歳のときに母を亡くし、9歳で家督を継いで藩主になったのです。
結婚相手も早々に決めていますし、15歳のときには朝鮮通信使・饗応役の一員にも選ばれ、他国の使節接待を無事にこなしてみせました。
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そして16歳のときには、一回目の勅使饗応役を命じられています。このとき指南役につけられたのが、あの吉良上野介義央(よしひさ)でした。
もちろん刃傷沙汰の起きる前であり、無事に饗応を終えています。
義央は長矩の26歳上でしたので、文字通り親子のような歳の差がありました。
また、同時期に赤穂浪士の筆頭・大石内蔵助良雄の大叔父である大石良重が江戸で亡くなっています。
良重は長矩のおばを妻にしており、若くして筆頭家老になった良雄の後見人、幼い主君・長矩の補佐、そして藩政という、二足どころか三足のわらじを履いていた超有能な人。大黒柱どころじゃありませんね。
江戸にいた頃には大名火消を命じられたことも
長矩は十代半ば、良雄も二十代半ばという状況だったため、良重の次に経験豊富だった大野知房という人物が良重の仕事を引き継いだと思われます。
この人も主に経済政策に能力を発揮していましたが、さすがに良重ほどの仕事は不可能だったでしょう。
長矩は饗応役を無事終えた後の夏、初めて赤穂藩にお国入りしました。
このとき良雄をはじめとした国元の家臣と対面し、ここから参勤交代で一年ごとに江戸と赤穂を往復するようになります。
江戸にいた年には、大名火消に任じられたこともありました。
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また、元禄六年(1693年)には、備中松山藩の水谷家が改易になったため、居城である松山城の預かりを命じられています。
次の城主が決まるまでの間、良雄が城代を務めていたのです。
長矩も家臣たちも、これらの役目を無事にこなしていたようです。
他の大名からは「まだ主も家臣も若いのに、なかなかよく働くじゃないか」と思われていそうですね。
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