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【浅野内匠頭(浅野長矩)】
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最大のナゾ・長矩は吉良を襲った理由は?
何はともあれ、建顕は急いで長矩を預かる支度を整えました。
迎えの藩士を派遣し、部屋を用意し、預かり期間が長くなることを見越したさまざまな準備をしています。
が、その間に即日切腹が決まってしまい、夕方には切腹を見届ける検視役まで来てしまいます。
田村家では困惑したそうですが、当の本人である長矩は冷静だったようです。
長矩が13歳のとき、母方の叔父・内藤忠勝が、似たような刃傷沙汰を起こして切腹になったことがあったからかもしれません。
そして粛々と腹を切り、34年の生涯を閉じました。
赤穂浪士46名の切腹~執行の日まで最も礼を尽くしたのは細川家だった
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遺体は浅野家の家臣たちが直ちに受け取り、泉岳寺(現・東京都港区)に埋葬されています。
さて、皆気になる刃傷の理由ですが、上記の通り長矩の取り調べが行われたどうかもはっきりしていません。
以前は「義央が長矩をイジメまくったので、長矩が思い詰めてブチキレた」という説が主流でした。
“イジメ”の内容は必要なことを教えなかったとか、逆に嘘を教えたなどですね。
しかし、長矩は以前にも勅使饗応役を任ぜられており、しきたりや作法について全く無知だったとは考えられません。
また、饗応役がヘマをすれば義央の落ち度にもなりますから、そんなことをわざわざする必要がありません。
現在の主流は「金銭問題があったのではないか」というものです。
水間沾徳の記録に残る金銭問題の跡
金銭問題とは如何なる理由からか?
それは水間沾徳(みずませんとく)という赤穂藩士複数名の俳句の師匠だった人が
「例年1200両かかる勅使饗応役の費用を、長矩が700両しか出さなかったため、長矩と義央が不仲になった」
というようなことを書いていることによります。
以下の二点により、この説は信憑性が高いとされています。
・一回目の饗応役を務めた時と比べて、二回目のときは大幅に物価が上がっていたが、長矩がそこを理解していなかった
・同時代の人間、かつ赤穂藩士に近い人物の記録である
私見ですが、当時の武士は「金は汚いもの」とする風潮があったことも影響したのではないでしょうか。
そのため「刃傷の理由が(汚らわしいものである)金のせいだなんて、世間に知れたらこの上ない恥辱である」と思い、長矩も赤穂藩も語りたがらなかったのでは……という気がします。
もうひとつ考えられるとしたら、長矩が現代でいうところの「繊細チンピラ」だった可能性も否めません。
現代でも、言葉の意味が上手く伝わらなかったりして相手を激怒させてしまうことってありますよね。
それが今よりずっと「面子」や「恥」に敏感な身分・時代にそういうことがあったり、重なったりすれば、「かつての遺恨を覚えたるか!」という気分になってしまったのも無理はないのかもしれません。
前半生のエリートぶりを思えば、長矩がこのような事件を起こし、最期を迎えたことは残念で仕方がないとしか……。まして、当時実際に仕えていた赤穂藩の面々はなおさらでしょう。
一体何が歯車を狂わせてしまったのか、ぜひいつかは解き明かされてほしいものです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『御家断絶―改易大名の末路 (別冊歴史読本 15)』(→amazon)
浅野長矩/Wikipedia