島原大変肥後迷

眉山(馬蹄形に山体が崩壊)/photo by Burt Lum wikipediaより引用

江戸時代

15,000人もの死者を出した「島原大変肥後迷惑」の噴火~崩れた山体は有明海へ

寛政四年(1792年)4月1日は【島原大変肥後迷惑】と呼ばれる出来事があった日です。

この字面だと「島原の人が肥後の人にものすごい迷惑をかけたのか?」とも見えてしまいますが、もちろん違います。

島原(にあった火山が)

大変(なことになったので)

肥後(の人々も)

迷惑(がかかりました)

という事象であり、自然災害でした。

人の手の及ばぬこととはいえ、一体何がどうして、海を挟んだこの二つの藩にまたがるような被害になってしまったのでしょうか。

 


江戸期に二回噴火した雲仙岳

そもそもの発端は、雲仙岳の活動が活発化したことでした。

雲仙岳はおよそ50万年前から噴火しはじめ、火山活動の推移によって周辺の山ができていったというスケールのデカい山です。

江戸時代には、1663~1664年と1792年の二回噴火しており、「島原大変肥後迷惑」はこの二回目、1792年の噴火にあたります。

前年の年末あたりから有感地震が増え始め、震源が徐々に雲仙岳の南東にある普賢岳へ向かっていったとされています。

江戸時代の人に現代人のような地震の知識はありませんから、それが何を意味するのかはわからなかったでしょう。

そして年が明け、2月半ばに普賢岳が噴火。

この時点で2km先まで溶岩が流れ、谷が一つ埋まるほどだったといいます。

しかし間もなく落ち着き、噴煙だけが続いたため、物見遊山に出かける者も多くいたとか。

さらにその人々をアテにして、周辺で物売りを始める者まで現れる始末。

奉行所では

「さすがにこれでもう一度デカい噴火が起きて死人が出たら(俺達の監督不行き届きなことにされて)ヤバい」

と考え、「火山を見物に行くのは止めるように」というお触れも出たそうです。

おおよそ200年後にほぼ同じ場所で悲劇が起こったことと、当時の科学力を考えると、これは慧眼だったといえるでしょうね。

そのうち2月末から溶岩が流れ始めましたが、含まれている物資の性質上、あまり早く流れるものではありませんでした。

島原大変大地図/wikipediaより引用

1日に30~35mくらいとのことなので、時速換算で1.5mくらいしか進まないことになります。

これだけだとイマイチイメージしにくいので、移動が遅い生き物の代名詞・カタツムリと比べてみましょう。

京都大学が2021年に行った研究(→link)によると、カタツムリの一種・ヒメマイマイが頑張ると秒速1.27~1.35mm=時速4.8mくらいになるようです。

つまり、1792年の雲仙岳から流れ出た溶岩は、カタツムリの最大速度の1/3以下の速度だったということになります。肉眼ではほとんどわからないでしょうね……。

これではナメてかかって、奉行所の言う事を聞かずに見物人が収まらないのも無理はありません。

 


有明海に土砂が流れ込み……

そして4月1日からは噴火も地震も本格化し、21日からは島原でも活動が始まりました。

最大で推定震度6の地震が起き、土砂崩れもあったそうですので、このあたりからは警戒する人も増えたかもしれません。

ところが、です。タチの悪いことに、1ヶ月後に一度活動が収まりかけています。

周辺の大名も一般人も「やれやれ、やっと落ち着いて眠れるな」と思ってしまったことでしょう。

そんな5月21日の夜8時ごろ、それまでにない規模の大きな地震が起きました。

他の火山や地震でもそうですが、地球にとっては1ヶ月の期間など瞬き一つにもならない程度の一瞬だということがよくわかりますね。

4月に土砂崩れを起こしていた山の斜面がこの地震でとどめを刺された形になり、その土砂が島原城を通り過ぎ、有明海に注ぎこんだといいます。

途中にあった建物も、そこで暮らしていた人々も巻き込んで……。

眉山(馬蹄形に山体が崩壊)/photo by Burt Lum wikipediaより引用

さらに悪いことに、土砂は有明海の水を大きく持ち上げました。

一体これが何を意味するか……。

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