寛政四年(1792年)4月1日は【島原大変肥後迷惑】と呼ばれる噴火が起きた日です。
一連の災害における、最初の噴火でした。
この字面だと島原の人が肥後の人にものすごい迷惑をかけたのか?とも見えますが、もちろん違います。
災害は人の手の及ばぬこととはいえ、一体何がどうして、海を挟んだこの二つの藩にまたがるような被害になってしまったのでしょうか。
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江戸期には1663年と1792年に二回の噴火
そもそもの発端は、雲仙岳の活動が活発化したことでした。
雲仙岳は50万年前から噴火しはじめ、火山活動の推移によって周辺の山ができていったというスケールのデカい山です。
江戸時代には、1663~1664年と1792年の二回噴火しました。
「島原大変肥後迷惑」はこの二回目1792年の噴火にあたります。
前年の年末あたりから有感地震が増え始め、震源が徐々に普賢岳のほうへ向かっていったそうですが、江戸時代の人に現代人のような自身の知識はありませんから、それが何を意味するのかはわからなかったでしょう。
そして年が明けてついに普賢岳が噴火。
この時点で2km先まで溶岩が流れ、谷が一つ埋まるほどだったといいます。
4月1日からは噴火も地震も本格化し、21日からは島原でも活動が始まりました。
タチの悪いことに、1ヶ月後に一度活動が収まりかけています。おそらく周辺の大名も一般人も「やれやれ、やっと落ち着いて眠れるな」と思っていたことでしょう。
しかし、5月21日の夜、それまでにない規模の大きな地震が起きました。
眉山も崩壊して有明海に土砂が流れ込み
今度の地震では眉山という山が大きく崩れ、その土砂が島原城を通り過ぎ、有明海に注ぎこんだといいます。途中に住んでいた家も、人々も巻き込んで……。
さらに悪いことに、土砂は有明海の水を大きく持ち上げました。これが何を意味するか。すぐに想像できましょう。
対岸の肥後は津波のような水に襲われ、島原も返す波で再び多くの死者が出てしまったといわれています。
双方合わせた被害者は1万5000人にも上るとか。
「島原大変肥後迷惑」とは、このように”「島原」で起きた「大(きな異)変」により、「肥後」が「迷惑」を被った”という災害だったのです。
そりゃ肥後から見れば迷惑以外の何物でもないですよね。自然現象ですから、島原の人には責任がないにしても。
ちなみに、このとき島原藩主だったのは松平忠恕(ただひろ)という人でした。
名字でわかる通り徳川家の縁戚なのですが、雲仙岳の噴火以外でも行く先々で災害に遭い、その度に幕府に借金をして立て直そうとした、ものすごくいい人です。
が、とどめにこんなデカい噴火に見舞われてしまったために、心労で亡くなったといわれています。
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