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【出島】
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シーズンのオンオフがくっきり分かれてた
では、実際の出島は、どんな様子だったのでか。
と、これがオンシーズンとオフシーズンがはっきり分かれておりまして。
毎年夏になるとオランダ船が来港し、同じ年の年末まで滞在して、この間の約4ヶ月がオンシーズンです。当然ながら人が増える分、諸々の需要も増えるので、周辺の経済も潤っていたとか。
反対にオフシーズン、つまり真冬から翌年の初夏くらいまではガッツリ減ります。
商館長以下の商売を行いに来た人々と、その使用人たち合わせて15人くらいしかいなかったといいますから、かなりの差があったでしょう。そして……。
他に日本人の役人や使用人、通訳などが100人ほど働いていました。
出島の面積からすると、普段はそう狭苦しいわけでもなさそうです。
また、商館長は江戸に出向いて将軍に謁見することもあったので、その間はさらに閑散としていたことでしょう。
1860年頃には埋め立てられ
幕末になりますと、オランダ本国でいろいろあったので出島も煽りを食らっています。
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また、ペリーによる開国の後は、オランダ人も長崎を出歩くことが許されました。
そして1856年に出島解放令が出され、三年ほどしてオランダ商館も閉鎖されると、出島はその役割を完全に終えました。
これによって出島が”島”である意義も失われ、明治時代に周辺が埋め立てられ、原型がわからなくなってしまったのです。
現在グーグルマップで検索しても、陸地にしか見えないですからね。
それでいて1922年に国の史跡になっているのがよくわからないところです。
出島状態のまま保存されておけば、今も江戸時代の姿を見れたのになぁ。
しかし、昭和の間から出島の調査が始まってからは、復元が進められていて、いくつかの建物を見ることができます。
また、1/15サイズの出島の模型も作られました。こちらはよく教科書に載っている扇型をしています。
長崎市が積極的に動いているので、近い将来、本当にかつての出島そのままで再現されるかもしれませんね。
流石に場所までは再現できないでしょうし、船の出入りを考えると、少し離れた場所に作るでしょうけれども。
ちょっと見てみたいですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
村崎 春樹『長崎「地理・地名・地図」の謎 意外と知らない長崎県の歴史を読み解く』(→amazon)
桜田 美津夫『物語 オランダの歴史 - 大航海時代から「寛容」国家の現代まで (中公新書)』(→amazon)
甦る出島/長崎市(→link)
出島/Wikipedia