長崎出島

1824~1825年頃に描かれた出島/wikipediaより引用

江戸時代

年4ヶ月間の滞在でオランダから賃料1億円貰っていた~長崎出島の意外な歴史

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出島
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シーズンのオンオフがくっきり分かれてた

では、実際の出島は、どんな様子だったのでか。

と、これがオンシーズンとオフシーズンがはっきり分かれておりまして。

毎年夏になるとオランダ船が来港し、同じ年の年末まで滞在して、この間の約4ヶ月がオンシーズンです。当然ながら人が増える分、諸々の需要も増えるので、周辺の経済も潤っていたとか。

オランダ船がやってくる様子を描いた川原慶賀筆「唐蘭館図 蘭船入港図」/Wikipediaより引用

反対にオフシーズン、つまり真冬から翌年の初夏くらいまではガッツリ減ります。

商館長以下の商売を行いに来た人々と、その使用人たち合わせて15人くらいしかいなかったといいますから、かなりの差があったでしょう。そして……。

他に日本人の役人や使用人、通訳などが100人ほど働いていました。

出島の面積からすると、普段はそう狭苦しいわけでもなさそうです。

また、商館長は江戸に出向いて将軍に謁見することもあったので、その間はさらに閑散としていたことでしょう。

 


1860年頃には埋め立てられ

幕末になりますと、オランダ本国でいろいろあったので出島も煽りを食らっています。

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また、ペリーによる開国の後は、オランダ人も長崎を出歩くことが許されました。

そして1856年に出島解放令が出され、三年ほどしてオランダ商館も閉鎖されると、出島はその役割を完全に終えました。

これによって出島が”島”である意義も失われ、明治時代に周辺が埋め立てられ、原型がわからなくなってしまったのです。

現在グーグルマップで検索しても、陸地にしか見えないですからね。

それでいて1922年に国の史跡になっているのがよくわからないところです。

出島状態のまま保存されておけば、今も江戸時代の姿を見れたのになぁ。

しかし、昭和の間から出島の調査が始まってからは、復元が進められていて、いくつかの建物を見ることができます。

また、1/15サイズの出島の模型も作られました。こちらはよく教科書に載っている扇型をしています。

長崎市が積極的に動いているので、近い将来、本当にかつての出島そのままで再現されるかもしれませんね。

流石に場所までは再現できないでしょうし、船の出入りを考えると、少し離れた場所に作るでしょうけれども。

ちょっと見てみたいですね。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
村崎 春樹『長崎「地理・地名・地図」の謎 意外と知らない長崎県の歴史を読み解く』(→amazon
桜田 美津夫『物語 オランダの歴史 - 大航海時代から「寛容」国家の現代まで (中公新書)』(→amazon
甦る出島/長崎市(→link
出島/Wikipedia

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