1年前に引っ越したかと思ったら、そのまた1年後にも異動を命じられたりする転勤族。
サラリーマンの悲哀――ではなく江戸時代にもそんな辛い目に遭っていた大名がおりました。
元禄八年(1695年)4月25日に亡くなった松平直矩(なおのり)です。
名字からわかる通り徳川家の流れをくむ血筋の人ですが、父・直基(なおもと)の代から都合七度もの転封があり、「引越し大名」と揶揄されるほど苦労続きの家でした。
父の代から振り返ってみましょう。
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祖父は何かと不憫だったアノ方で……
直矩の父・松平直基。
直基は、何かと不憫な結城秀康の五男です。
不憫とは、父の徳川家康から疎まれるような扱いをされていたというもので、詳細は以下の記事をご覧ください。
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義理の祖父である結城晴朝に育てられた直基は、成長後は晴朝の隠居料である5,000石を相続しました。
晴朝は秀康の長男・忠直があっさり松平姓にしたことにショックを受けており、家康に願い出て直基を引き取ったのだそうです。
五男というと、当時の感覚では部屋住み=穀潰し扱いまっしぐらの生まれ順ですから、晴朝が孫を哀れんで遺産を残した……という面もあったかもしれません。
直基もその恩を返すためか、松平姓を許されても結城家の家紋を使い続けたり、結城家の祭祀を継いだりしているのですが……。
その後、実に4回もの転封を命じられます。
父親の代で4度の引っ越し
転封とは、言わば領地を替えること。幕府の命令ですから、素直に引っ越さねばなりません。
寛永元年 (1624年)越前勝山藩3万石
寛永十二年(1635年)越前大野藩5万石
正保元年 (1635年)山形藩15万石
慶安元年 (1648年)姫路藩15万石
地域性も何もあったもんじゃない、無茶苦茶ぶりです。
越前勝山藩や大野藩は、元々秀康の領地の一部だったので不自然ではない……と見ることもできますが、山形藩や姫路藩はこの時期に限らず、いろいろな大名がしょっちゅう出入りしている難しい土地柄でした。
石高だけ見れば加増なれど、これでは引き渡しの事務や出費ばかりがかさんで、内政どころではありません。
直基はそれでも行く先々で藩政に励んでいました。
しかし苦労がたたってか、姫路藩への国入りをする旅の途中で亡くなってしまいます。
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