名張騒動

名張藤堂家邸跡

江戸時代

織田と豊臣の重臣末裔が起こした「名張騒動」悲劇の名張藤堂家邸跡には何がある?

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「殿様」と呼ぶのも禁じられた

さて、寝返りを打つにも安濃津にお伺いを立てねばならない窮屈な境遇になった名張藤堂家の殿様。

配下の者たちが名張藤堂家の当主を「殿様」と呼ぶのも禁じられていたと言います。

これを境に、今度は芸術に精を出すようになりました。

まぁ、暇だろうし、多少はね?

藤堂家屋敷には、代々の当主が自ら描いたというなかなかの逸品が多く残されています。

あれだけこじれた本藩との関係も、8代長教が藤堂本家から正室を迎えるなど血縁関係を結ぶと癒えていったようで、10代高美 (たかよし)はまた「高」の字を名乗るようになりました。

彼は本家からの婿養子なので「高」を名乗っていて当然でもあるのですが。

そして、そのまま明治維新を迎え、今でもどこかに流れを引く人がいるのだとか。

それでもなんとなく伊賀の中で伊賀上野と名張にはなんとなくぎくしゃくした関係が残っているようですが……それに関しては以前、たわむれに書いたことがあるので探してみてください。

 

名松線と名張

もうひとつ、個人的な発見は名張と奥津・松阪との関係でした。

三重県松阪市には、伊勢奥津まで伸びる「名松線」というローカル線があります。

「名松線」(その前は桜井~吉野まで行く予定で「桜松線」と呼ばれていたようです)という名前は、名張と松阪からとられたのですが、先に近鉄大阪線が開通したため不要となり、伊勢奥津まで敷設したところで建設中止となってしまいました。

申し訳程度に名張~奥津間で1日1便のバス路線が運行されています。

まぁ、それはわかるのですが、現在の目から見るとなぜこんなルートで鉄道を敷こうとしたんだろうと思いませんか?

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一つには、雲出川(くもずがわ)と名張川の存在があるようです。

雲出川を遡ると伊勢奥津に至り、そこから名張川を下ると名張に至る。

昔の人の目から見ると、伊賀と伊勢をへだてる急峻な布引山地をトンネルでぶち抜くより、このぐねぐねして遠回りなルートのほうが自然だったんでしょうね。

そういえば、子どものころ、よく少年サッカー団で伊勢奥津にある美杉小学校とよく対戦したっけ。

そしてもう一つは、藤堂高吉繋がりです。

彼の所領は、松阪にあったようで(ここらへん、メモとるの忘れててあやふや)。

現在では、名張と松阪には直接的な繋がりがなくて、県庁のある津を介した繋がりという感じが強いのですが、もともとは交流関係があったのかもしれません。

もし名松線が全線開通していたら?

それでも近鉄大阪線に負けて衰退していたとは思いますが、もっと松阪との関係が濃厚だったかもしれません。

 

最後に

以上は藤堂家屋敷の管理をされていた方から聞いた話と、自分の想像と妄想によるものです。

一時間ぐらいの間でしたが、お話が聞けて楽しかったです。

なお、もし間違っているところがあれば、それは自分の想像と妄想の部分です。ごめんなさい。

文:だるやなぎ

だるろぐ450

本稿は、サイト『だるろぐ』の記事を武将ジャパンに再掲載させていただいたものです(もっと記事を読まれたい方はコチラへ)

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【参考】
名張藤堂家邸跡(→link

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