こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【十返舎一九】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
『東海道中膝栗毛』でブレイク!
享和2年(1802年)、『東海道中膝栗毛』が刊行されました。
長期連載など意図していない。
軽い読み物としての刊行。
“膝栗毛”とは、膝を栗毛馬のように用いるという意味で、要するに「東海道を徒歩で歩いたレポ」といった体裁です。
主人公二人はイケメンからは程遠く、弥次郎兵衛は40才ほどの色黒髭面。
喜多八は二十代前半で、獅子鼻の江戸っ子です。
この二人が伊勢神宮参りを思い立ち、東海道をダラダラと旅してゆく。
そこで失敗し、下ネタをかまし、お粗末な名所案内をしながら狂歌を読む――旅の恥はかき捨てとばかりに、客引女、飯盛女と戯れる。
土地土地で食べられる地のものがどれだけ美しいか。といった類の話は書かず、名所案内もおちゃらけている。
そんな軽薄な本だったのですが、驚きの大ヒット!
もともと十返舎一九の旅の経験から、軽い気持ちで書き、それを版元も出してみた。
結果、思いも寄らない人気となったのが『東海道中膝栗毛』だったのです。
この一作で人気作家となった一九は、原稿に追われる日々となります。
『膝栗毛』シリーズは一年ごとに一作が出版されました。人気作品とあってか、正編だけで終わらず、続編まで刊行され、文政5年(1822年)まで実に二十年間にもわたる長期連載となったのです。
この間には、様々なことがありましたので、ザッと年表で確認してみましょう。
『膝栗毛』を書きながら京伝や馬琴とも交流
・文化元年(1804年)『化物太平記』が処分対象とされる
・文化2年(1805年)妻のいとが亡くなる
・文化3年(1806年)信乃と再婚する
・文化4年(1807年)次男のまつが亡くなる
・文化7年(1810年)目を患い、その後もしばしば再発に苛まされる
取材のため、とにかく旅を続けた一九は、同時に山東京伝、曲亭馬琴(滝沢馬琴)、式亭三馬、鈴木牧之らとも交流を重ねています。
その一方で『膝栗毛』を書き続けるのですから、これは大変なこと。
本編の中身こそ軽妙なお笑いに溢れておりますが、作家にしてみれば、そう読ませるだけの苦労は強いられます。
プライベートでどんなに悲しいことがあろうと、『膝栗毛』ファンを喜ばせるため、お笑い、下ネタ、エッチな小話を書き続けなければならないのです。
取り上げるネタにしたって、常に鮮度を保つためには表現の工夫や変化も必要ですし、なかなか辛いことだったでしょう。
なんせ、十返舎一九本人が亡くなっても、弟子を二代目にして書かせ、結局は頓挫してしまったのですから、作業量もハンパじゃなかったはず。
※続きは【次のページへ】をclick!