島原の乱

「島原御陣図」/wikipediaより引用

江戸時代

最後の戦国「島原の乱」を制した知恵伊豆がエグい~板倉重昌は無謀な突撃で討死

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
島原の乱
をクリックお願いします。

 


進退窮まり 新年早々自ら突撃

進退窮まった重昌。

「お天道様も照覧あれ!!」と言わんばかりに、新年早々自ら原城へ突撃を決めてしまいます。

男らしいにも程があるだろ。

これで一気に城を落とすことができたら、歴史に名を刻むことができるだろう……けれど……。

あえなく討死となってしまいます。

板倉重昌の男気も、士気MAXの反乱軍には通用しませんでした。

重昌の辞世

新玉あらたまの 歳に任せて 散る花の 名のみ残して 先駆けと知れ

このとき板倉だけでなく幕府側の兵も相当な死者数になっており、戦術と士気がどれだけ大切かわかりますね。

巻き込まれた将兵は可哀想で……。

幸い、信綱が1月4日に到着したため、残された幕府軍が完全に瓦解することはありませんでした。

もっと遅れていたら、乱がさらに長引いていたかもしれませんね。

 


徹底した兵糧攻め

信綱は戦の経緯を聞き、根本から戦略を変えるべきだと考えました。

戦は大軍であればあるほど有利と思いがちですが、決定的な弱点も生まれます。

兵糧の確保と調達です。

ことに篭城戦の場合は、協力してくれる水軍や周辺勢力の存在は不可欠であります。

ならば、かつての織田信長vs本願寺顕如の石山本願寺や、豊臣秀吉vs吉川経家の鳥取城で行われたような兵糧攻めが最適でした。

特に秀吉の兵糧攻めはエゲツなかったことで知られ、以下に詳細記事がありますので、よろしければ併せてご覧ください。

鳥取の渇え殺しと三木の干し殺し
秀吉と官兵衛の「鳥取の渇え殺し&三木の干し殺し」がエグい 人は飢えると◯肉も喰う

続きを見る

信綱も、城内の兵糧が決して潤沢でないことを確認。

となればやることは一つ。

徹底した兵糧攻めですね。

いくら士気が高くても、飢えては戦ができません。

幸い原城は幕府軍が陸海両方から取り囲める程度の城でしたから、外部との連携を絶つのは簡単でした。そしてその結果は?

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-江戸時代

×