こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【島原の乱】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
進退窮まり 新年早々自ら突撃
進退窮まった重昌。
「お天道様も照覧あれ!!」と言わんばかりに、新年早々自ら原城へ突撃を決めてしまいます。
男らしいにも程があるだろ。
これで一気に城を落とすことができたら、歴史に名を刻むことができるだろう……けれど……。
あえなく討死となってしまいます。
板倉重昌の男気も、士気MAXの反乱軍には通用しませんでした。
重昌の辞世
「新玉の 歳に任せて 散る花の 名のみ残して 先駆けと知れ」
このとき板倉だけでなく幕府側の兵も相当な死者数になっており、戦術と士気がどれだけ大切かわかりますね。
巻き込まれた将兵は可哀想で……。
幸い、信綱が1月4日に到着したため、残された幕府軍が完全に瓦解することはありませんでした。
もっと遅れていたら、乱がさらに長引いていたかもしれませんね。
徹底した兵糧攻め
信綱は戦の経緯を聞き、根本から戦略を変えるべきだと考えました。
戦は大軍であればあるほど有利と思いがちですが、決定的な弱点も生まれます。
兵糧の確保と調達です。
ことに篭城戦の場合は、協力してくれる水軍や周辺勢力の存在は不可欠であります。
ならば、かつての織田信長vs本願寺顕如の石山本願寺や、豊臣秀吉vs吉川経家の鳥取城で行われたような兵糧攻めが最適でした。
特に秀吉の兵糧攻めはエゲツなかったことで知られ、以下に詳細記事がありますので、よろしければ併せてご覧ください。
秀吉と官兵衛の「鳥取の渇え殺し&三木の干し殺し」がエグい 人は飢えると◯肉も喰う
続きを見る
信綱も、城内の兵糧が決して潤沢でないことを確認。
となればやることは一つ。
徹底した兵糧攻めですね。
いくら士気が高くても、飢えては戦ができません。
幸い原城は幕府軍が陸海両方から取り囲める程度の城でしたから、外部との連携を絶つのは簡単でした。そしてその結果は?
※続きは【次のページへ】をclick!