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【島原の乱】
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敵兵の遺体を解剖し胃の中を見る
たちまち食料に困り始めた反乱軍。
断崖絶壁を這い下りて海藻を取りに行かなければならないほど飢えていたといいます。
そして兵糧攻めを始めて一月半ほど経った頃、耐え切れなくなった反乱軍の一部が「食い物と武器をよこせ!!」と幕府軍へ襲い掛かってきました。
しかし食料難で力の衰えた素人など、大名家の相手ではありません。
勝利を収めた信綱は、反乱軍の兵の遺体を解剖させました。
もちろん、医学のためでありません。
腹の中を見ることによって、城内でどんな食事をしているのか調べたのです。
この話はこのときくらいしか出てこないんですが、もしかして信綱の発想だったんですかね。だとしたらホントに恐ろしい人だ。
予想通り、腹の中はほぼ空っぽでした。
「今こそ好機!」
そう判断した信綱は、さっそく全軍に総攻撃を命じます。
空腹の反乱軍など、もはや敵ではありません。
信綱が着陣しておよそ2ヶ月。
寛永十五年(1638年)2月28日に島原の乱はようやく治まったのでした。
しかし、不思議なのは、この戦いに参加した武将たちなのです。
戦国時代に名を轟かせた方たちも混ざっていたのですが、なぜ、ここまでグダグダになったのか……。
最後に、この戦いに加わった主な大名や武士を見ておきましょう。
武蔵、細川、宗茂の豪華ラインナップ
まずは何といっても宮本武蔵。
彼は養子が九州・小倉の小笠原家に仕えていたため、その縁で島原の乱に幕府側で参戦していました。
このときの働きが元で、熊本藩の細川家に客分として招かれています。
細川家からは、戦慄の愛妻家・細川忠興……ではなくその後を継いだ細川忠利が来ておりました。
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忠興は存命中でしたが、関ヶ原の後くらいから眼病になっていたので、とても戦に出られる状態ではなかったんですね。
年齢も70半ばでした。
ところがどっこい、ほぼ同年代の立花宗茂(※70歳)は、ばっちり参戦しています。
戦国最強として、本多忠勝と共に讃えられた武将ですね。
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諸大名からも「キャー武神様の再来よー!!」(ただし野太い声)と絶賛されていたとかで、生涯現役とはまさに彼のことでしょう。
ちなみに亡くなったのは、この5年後のことです。
宗茂と同い年だった伊達政宗は島原の乱勃発の前年に亡くなっていました。
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もし生きていたら、参戦していたような気がしてなりません。いや、九州は遠いからさすがに無理かな……。
それと、忠勝や宗茂と並ぶような勇将の水野勝成も参加しています。
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まさに戦国期の最終仕上げといった内戦。
結局、この戦いは内乱の鎮圧だったため、諸将への褒美はほとんどありません。
ただし、これを機に幕府は一層キリスト教徒や謀反に対する締め付けを強め、誰も逆らおうとはしなくなります。
ある意味、島原の乱は江戸幕府の権力を決定付けた戦いでもありました。
なお、知恵伊豆こと松平信綱の生涯については、以下の記事にまとまっておりますので、よろしければ併せてご覧ください。
やはり幼い頃からスペシャルな頭脳をお持ちの方でした。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
日本大百科全書
島原の乱/wikipedia