鷹を使ってウサギやキツネ、鴨、キジなどの鳥獣を捕獲させる狩りのことで、その名産地を治める大名にとっては、外交手段の一種として用いられるほど貴重な存在でした。
プレゼントしてご機嫌麗しゅうするんですね。
正確に申せば、鷹だけでなく鷲(ワシ)や隼(ハヤブサ)も使われました。
いずれにしても、現代を生きる我々にとっては、いまいちピンと来ないのも事実。
鷹狩の歴史とは、いかなるものだったのか。振り返ってみましょう。
※以下は『信長公記』の鷹狩関連記事となります
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世界最古は前8世紀 日本では4世紀から
世界的に見ますと、最古の記録はアッシリア王サルゴン2世の時代(紀元前722-705)。
ドゥル・シャルキンの遺跡から、鷹狩の様子を刻んだレリーフが出土しています。
中国でも前7世紀には鷹狩が行われていたとされています。
モンゴルなどの中央アジアではもっと古くから行われていたという見方もありますが、ハッキリした記録が紀元前8世紀ということですね。
では日本では?
これまた歴史は古く、年号で言うと仁徳43年(355年)。
『日本書紀』における仁徳天皇時代の記録が最古のもので、百舌鳥野(もずの・現在の大阪府堺市)で、百済出身の家臣が飼育した鷹を用いて行った、とあります。
また、5世紀から7世紀のものとされる「鷹匠と鷹の埴輪」も日本全国において出土しています。
「御鷹」として権威の象徴に
かように多くの人々に楽しまれていた鷹狩は、時代が下ると権威的なスポーツとして、特権階級のものとされてゆきます。
許可を得た者だけが鷹を飼育し、狩りをすることができたのです。
例えば9世紀に在位した嵯峨天皇は、鷹狩をこよなく好みました。
鷹狩について記した『新修鷹経』を勅撰させるほどで、当時は天皇家が行う特権として定着していったのです。
それに付随して、天皇家の鷹術を伝える家柄もありました。
更に時代が進み、武士が台頭してきますと、鷹狩もまた武士たちが行うものとなりました。
大名の間で広まる鷹狩
政治的にも特に盛んになったのは室町時代から戦国時代にかけて。
室町幕府は、守護大名に鷹の献上を命じるほどになります。
戦国時代になりますと、名産地である奥羽の大名は時の権力者である織田信長らにこぞって鷹を献上するようになりました。
たとえば徳川家康の家臣・本多正信も鷹匠だったとされています。
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この時代になると、鷹は権威的なスポーツというだけではなく、権力者が鷹を集めることによって支配体制や権力を固めるという意味も生まれていたわけです。
茶器と似ているかもしれませんね。
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五代将軍・綱吉による鷹狩中止
権威付けは、江戸幕府にも受け継がれました。
家康自身が熱中したこともあってか、江戸時代、奥羽をはじめいくつかの大名家は、幕府から鷹の献上を命じられていました。
また、朝鮮通信使が鷹を献上することもあったほどです。
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それとは逆に、将軍から有力大名家に鷹場を与えることもありました。
こうした鷹場は、「恩賜鷹場」とされ、例えば、伊達政宗、上杉景勝、井伊直孝(井伊直政の息子で彦根藩2代藩主)らに行われています。
ただし、徳川綱吉の代にあると状況が一変します。
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後に【(一連の法令をまとめて)生類憐れみの令】を発布した綱吉は、将軍就任以前に行っていた鷹狩をヤメました。
いかにも動物LOVE♪という印象を受けるかもしれませんが、実は動物愛護というよりも、贅沢禁止や経費節減が主な理由です。
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ただ、そうは犬公方と呼ばれる綱吉さんだけにそうも言い切れないんでは?と思える理由もありまして。
鷹狩に使う鷹の餌が、犬の肉だったのです。
結果、生類憐れみの令発布後は、完全に禁止とされました。
将軍家だけではなく、大名家もこれに従い、奥羽の大名家からの鷹献上も廃止されます。
この禁令は、第6代家宣、第7代家継の治世においても続けられました。そして……。
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