元暦二年=寿永四年(1185年)3月24日は、壇ノ浦の戦いが行われた日であります。
ご存知【源氏vs平氏】の最終決戦であり、いろんな意味で劇的であることは、みなさんもなんとな~く頭にございましょう。
平家物語での【壇ノ浦の合戦】は以下のように美しく表現されております。
「平家の赤い旗や印が水面に散り、まるで紅葉の名所・竜田川の紅葉のようだった」(意訳)
なんだか完全に【風流】ですね。
コトの詳細記録があまり残っていないので、いささかヌルくなってしまいますが、まずは先へ進みましょう!
お好きな項目に飛べる目次
義経は水軍を雇って平氏に対抗!
源義経の大活躍により、
で、立て続けにフルボッコにされた上、九州にいた味方が源範頼(源頼朝の弟)にやられてしまった平家軍。もはや進退窮まった状態にありました。
-
源範頼(頼朝の弟)の不審死~10人以上いた兄弟で消されたのは義経だけでなく
続きを見る
それでも黙ってやられるのは不本意でしょうから、本州と九州の境目にある彦島というところに立て篭もります。
そして当然の事ながら、東からは義経、西からは範頼がやってきました。
彦島は瀬戸内海の他の島に比べれば大きなほうですが、それでも陸戦で決着をつけるには狭いところです。
となるとこれまた当たり前のように、本格的な戦いは海の上ということになります。
水軍に強い平家にとっては正真正銘、最後のチャンス。
さすがにこの頃になると、源氏方も船の重要性はわかっていたので、義経がまず周辺の水軍(海賊+傭兵みたいなもの)を傘下に組み入れ、「俺が先頭に立つ! 皆の者続け!!」となりました
が、ここで頼朝からお目付け役としてつけられていた梶原景時(かじわら かげとき)という人物が、義経に待ったをかけます。
恨みに思った景時があることないこと報告
「いやいや、大将が先頭に立つとかありえないでしょ、フツー。やられたらどうするんですかw」(意訳)
景時はそう言いました。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用
一応ただのイチャモンではない内容ですが、義経は聞く耳を持ちません。
「大将ってのは一番エライ人のことなんだから、鎌倉の兄上に決まっているだろう。俺は一軍の将に過ぎん。だから先頭でもおk!!」(超訳)
これに対し、景時の反応も実に大人気ないもので……「あいつ器小せーな」(超訳)とボヤいてしまいます。
義経も義経で「あんたバカァ?」(超訳)と返したため、あわや最終決戦の直前で同士討ちになるところだった……といわれています。2人とも子供だわ。
-
源義経31年の儚き生涯まとめ! 兄・頼朝とすれ違い続けた悲しき英雄とは
続きを見る
その場は他の家臣たちが間に入って事なきを得ましたが、景時はこれを恨みに思い、後々義経についてあることないことを頼朝へ報告したといわれています。
その後どうなったかということを考えれば、義経失脚の一因がこのくだらない口ゲンカだということは勿体ない気がします。
もちろん景時だけのせいではありません。他ならぬ義経自身の行動によるところが最も大きいですし、頼朝だっていくら現場にいないとはいえ、景時一人の戯言を心の底から信じるほどのアホでもない。
まぁ、物語の伏線としてはなかなかですよね。
話を壇ノ浦に戻しましょう。
平家の主だった将たちは次々と海へ
義経軍は東(瀬戸内海)から向かってきたので、平家軍はこれを彦島から迎え撃つ形になりました。
船の扱いには平家に一日の長があったため、序盤は義経軍が苦戦。
しかし潮の流れが変わり、義経軍を後押しするように波が動き出すと、これに乗じて平家方の船に乗り移ることができました。
その後は漕ぎ手や船頭を射ったり斬ったり、制圧にそう長い時間はかからなかったようです。
海戦で船が動かせないのではどうにもなりません。ですから、この時点で平家の主だった将たちは次々と海へ身を投げたといわれています。
これまた平家物語の有名な場面、「先帝身投」はこのあたりです。

現在の壇ノ浦/Wikipediaより引用
清盛の妻・二位尼が安徳天皇を抱きかかえ…
先帝とは、この時点で廃位同然の状態だった安徳天皇(清盛の孫)のこと。
このときは平家の女性達と同じ船に乗っていました。
そこへ平家軍の実質的な大将だった平知盛がやってきて、「これから珍しい東男をお目にかけましょう」と笑ったそうです。
※続きは【次のページへ】をclick!