しかし、これが戦場ともなればそんなもん関係ありません。
大正七年(1918年)12月24日、シベリアに出兵していた日本軍の一部撤退が決定しました。
受験生にとっては、この辺りから近現代史がややこしさMAXのところに突入し始め、複雑な構図が増えてきます。
まずは関連する事件を時系列順に並べてみましょう。
当時ロシアとその他の国では違う暦を使っておりましたが、わかりやすいようにグレゴリオ暦(日本でいう新暦)で統一しますね。
【シベリア出兵までの時系列まとめ】
1914年7月 第一次世界大戦勃発
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1917年3月 革命勃発、ロシア帝国終焉
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1918年8月 旧日本軍のシベリア出兵開始
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同年11月 第一次世界大戦終了
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同年12月 旧日本軍の一部撤退が決定 ←今日ここ
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ロシアの単独講和でプレッシャーは英仏へ
事の発端は、第一次大戦中の諸々です。
この戦争ではイギリス・フランス・ロシアなどを中心とした連合国と、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国などを中心とした同盟国側が争い、連合国側の勝利に終わりました。
しかし、ロシアを中心として見ると必ずしもそうとは言い切れません。
第一次大戦の大きなキーワードとして「近代戦争」、つまり戦車や飛行機、化学兵器などが初めて使われたということがよくテストに出ますよね。
当然こうした新しい武器は国が近代化していないと揃えられません。
ロシアは、近代化が進んでいるとはいえない状態だったので、連合国側であっても劣勢に陥ることが多くなっていたのです。
同盟国側は、ロシアとイギリス・フランスを分断するような位置に国があり、ロシアはほぼ一国で敵を相手にするも同然のジリ貧状態でした。
その最中にロシア革命が勃発。
同国の帝国体制が終焉を迎えます。
新政権であるボリシェヴィキ(レーニン一派)は、これ以上の戦争継続は不可能と考え、単独で同盟国側と講和を結びました。
これにより東方の脅威がなくなった同盟国側は、兵力を西方、つまりイギリス・フランスなどの方へ注力します。
当然ながら英仏両国にとっては大迷惑な話で、何とかして同盟国の戦力を分散させようと考えました。
日本がチェコをダシにして攻めてこようとしている?
そこで目をつけたのが、ロシア帝国が作ったチェコ人部隊。
元々は同盟国に属していたのですが、ロシアの捕虜として軍に組み入れられていたのです。
本来であればロシアが講和した時点で西部戦線に行く予定でした。
しかし、ロシア方面から「中央ヨーロッパ=敵軍のど真ん中」を突っ切って行けるような状況ではなかったので、シベリア→ウラジオストック→アメリカ→母国というエクストリーム遠回りをすることになっています。
そしてその途中で、どこかのアホがロシア軍の軍服を着て日本人相手に強盗殺人を働くという事件が起きたため、事態が一気にキナ臭くなります。
当時は日英同盟がまだ有効でしたから、もしこれが狂言であれば、日本がロシアに介入しようとしていることに他ならなかったからです。
まだ日露戦争の記憶も新しいこの時期。
ボリシェヴィキからすれば「日本がチェコをダシにして攻めてこようとしている」と考えられてもおかしくはありませんよね。
そのため事実確認をする間、チェコ人部隊に「事態が収まるまでしばらく待て」と命じたのですが、命じられたほうとしては何がなんだかわかりませんから、当然不満も募ります。
ただでさえ超長距離の遠回りをしなくてはいけないのですから、たった数日でも大きな遅れになるのは必定。
そのため、チェコ人部隊は暴動を起こしてしまいます。
旧軍が虐殺行為など……知られざるイワノフカ事件
こうしたロシア国内での不和を見た英仏両国は次のように考えます。
『ボリシェヴィキ気に入らんし、チェコ人部隊救出ってことにして横槍入れよう。元は同盟国側のヤツらなんだから、ドイツだって無視できないだろゲヘヘ(超訳)』
さらに事態をややこしくかつ自分達の有利に進めようと計画しました。
そこで、使える手駒が手元になかったため、地理的に近い上、日英同盟で引っ張り出せる日本に「ちょっとシベリア行ってきて」と頼んできたのです。
日本からしても、日露戦争の苦い記憶(お金と人命かけた割にうまみナシ)はまだ色濃く残っていました。
日本国内では政治家を中心とした「慎重派」と、軍部主導の「推進派」に分かれていたのですが、船で脅威をちらつかせる【砲艦外交】を英国が展開すると、日本も軍艦を派遣。
「シベリアに干渉することで、上手くいけば大陸での権益を獲得できるかもしれない」
連合国からは「ウラジオストック周辺まででよろしく」といわれていたのですが、旧軍はこの下心によりさらに奥まで進み、ロシア人ゲリラとのイタチゴッコをするハメになりました。
そこで業を煮やした結果、虐殺等の野蛮行為を働いてしまったのです(1919年イワノフカ事件)。
前線の兵は嫌気が差していた人も多かったらしく、ロシア語学者の八杉貞利(やすぎただとし)は著書の中で「他国のイザコザに巻き込まれて苦しむなんて馬鹿げてる」(意訳)と書いています。
さらに、この件には笑えないオチがあります。
第二次大戦時にシベリア抑留の被害者だった旧日本軍人のご遺族が1994年、このとき襲われた村の一つを訪れたことがあるそうです。
そして犠牲者の慰霊碑を建てようとしたところ、現地のご老人に「あなた方は、昔この村で日本軍が何をしたのか知らないのか」と言われ、初めて一連の事件を知ったのだとか。
以降、日露双方の遺族・関係者により慰霊式等が行われるようになったとのことで、一応丸く収まったようなのですけども……。
時期的には二十年ほどズレているんですが、同じ地域だからごっちゃになってしまったんでしょうね。
しかし当事者からしたらあんまりな話です。
ポーランドの子どもたちを800人母国へ送り届けた
一方で善行と呼ぶべきこともしていました。
ロシアの戦争で哀れにも毎回とばっちりを食う国がいくつかありますが、その一つ・ポーランドの子供たちを旧軍が助けているのです。
ロシア革命以前のポーランドはロシア帝国による征服を受けており、その影響で政治犯や罪もない子供たちが相当数シベリアに送られていました。
帝国が崩壊しても、革命の混乱等で彼らは故国に帰ることができず、取り残されてしまっていたのです。
欧米諸国も彼らを助けたところでメリットがないので、見殺し同然にしていました。
日本の中にこれを知って哀れんだ人々があり、日本赤十字社を中心とした一団が彼らを救出、ポーランドまで送り届けたのです。
人数が人数なので一度に全員とはいかず、大正九年(1920年)と十一年(1922年)の二回に分けて救済が行われた結果、約800人を送り届けることができたとか。
この救出計画に従事した旧日本軍将校51名には、ポーランド政府から勲章が贈られています。
将校たちが良心で決行? 現場の指揮官の質によるものなのか
興味深いのは、この救出計画が行われたのは上記の通り、シベリアからの撤兵が決まった後だということです。
つまり、当時の日本政府としてはあまり積極的に関わるつもりがなかったと見ていいでしょう。
また、交戦相手であるロシア人であれば日本から見て捕虜になりますから、人道的に保護するのも当たり前の話ではあります。
相手がポーランド人だったにもかかわらず、これほどの手間をかけて救済したというのは、赤十字はもちろん、従事した将校達の良心によるものに他なりません。
さすがにここまで経緯を知っていて、ロシア人とポーランド人の区別がついてなかったなんてことはないでしょうし。
こうして並べてみると、同一人物ではないにしろ同じ人間のやることか、としか言えませんね。
現代でも諸々の戦争を語る際、「××をした○○人は最低だ!」みたいな話になることがままありますが、多分どこの国の人でも同じなんでしょうね。
現場の指揮官の質によるものなのか、現場における直近の事情によるのかはわかりませんが。
何にせよ、21世紀以降はこのような戦争が起きることのないように祈りたいものです。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
シベリア出兵/Wikipedia
イワノフカ事件/Wikipedia