これらはすべて太平洋戦争の末に海底へと沈んでいった――のではなく不慮の事故で沈んでいきました。
一体何がどうしてそうなったのか……。
明治四十年(1907年)1月14日は巡洋戦艦・筑波が就役した日です。
「就役(しゅうえき)」とは、船が完成した状態で軍に所属したときのことをいいます。
船って完成前でも水に浮かべたり進ませたりすることができるんですね。そのタイミングを「進水」といいます。まんまですね。
また、「竣工」は武装や設備の工事が終わった段階のことです。こちらは家屋などでも使う言葉ですので、聞き覚えのある方も多いでしょう。新築の一軒家に例えるとすれば、「進水」が家の外側
ができた状態、「竣工」が内装工事まで終了したところ、「就役」が施主に引き渡したところ、という感じでしょうか。
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大正天皇の「御召艦」だが横須賀港で火薬庫大爆発
筑波は、日露戦争で失われた「初瀬」「八島」という戦艦の代わりとして作られました。
国産初の大型艦建造ということで、いろいろと気合が入っていたようです。
進水式には大正天皇(当時は皇太子)が臨席し、就役の後も天皇が乗る「御召艦(おめしかん)」としてたびたび働きました。
他の例では、明治天皇が戦艦・浅間、昭和天皇が戦艦・比叡に乗ったことが複数回あります。
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歴代の天皇にとっても、最も思い入れのある船だったことでしょう。
しかし、筑波は戦艦としての実力を発揮する前に失われてしまいました。
就役のちょうど10年後にあたる大正六年(1917年)1月14日に、横須賀港で火薬庫が大爆発を起こして、あっけなく沈んでしまったのです。
この日は日曜日だったため、乗員の半数が陸で休暇をとっていたのですが、それでも残っていた乗員の半数(約170名)が亡くなったといわれています。
東京の目と鼻の先といっても過言ではない場所で、しかも御召艦に使われた船の爆発事故、というショッキングな出来事でした。
……が、実はこの手の事故は、珍しい話でもありません。旧日本軍だけでも複数存在します。
あまり気分のいい話ではありませんが、まとめてみました。就役順に行きましょう。
三景艦「松島&厳島&(天)橋立」のひとつ
明治二十五年(1892年)就役で、日清戦争に備えて作られた船でした。
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当時は清も「やべえ、どうにかウチも近代化しないと西洋に押しつぶされる」と危機感をつのらせており、何とかして軍備を整えようとしていた頃です。
そして清が作り上げたのが、戦艦「鎮遠」と「定遠」でした。
どちらも排水量・主砲・装甲の厚さが当時の基準を大幅に上回る船で、日本政府は「やべえ、あんなのに対抗できる船なんてウチにない」と大慌て。
しかし、そう簡単に同等クラスの戦艦は作れないため、「せめて主砲だけでも同等以上のサイズにして、なんとかぶっ放せる船を作ろう」という方針が立てられました。
そうして作られたのが、「松島」を始めとした「三景艦」と呼ばれる三隻の船です。
これは三隻とも日本三景、つまり松島・厳島・(天)橋立という名前がつけられたことからきています。
なんとも風流ですが、設計方針が「殺られる前に殺れ」だということを考えると「それでいいんかいな」とツッコミたくなりますね。
ちなみに、設計に関わったフランス人技師は「船の大きさと主砲のバランスを取らないと危ないですよ」(意訳)と言っていたのですが、既に焦りまくっている日本政府と海軍は聞きませんでした。
なんで船の大きさと主砲の大きさが関係するかというと、砲というのは撃った反動が船に響くからです。
鉄製のシャベルを振り回そうとしても、ある程度筋力がないとよろけたりしますよね。原理的には違いますが、イメージとしてはそんな感じです。
ですから、基本的に「デカイ船ほどデカイ砲が積める」=「デカイ砲を積みたければ船全体をデカくしないと無理」なのです。
ちなみに、空母と戦闘機も似たような関係を持っています。
十分な広さの飛行甲板がないと、助走が足りず、飛行機がきちんと飛べません。最悪の場合「船から飛んだと思ったら波に突っ込んだ」なんてことが起こりえます。こわい。
閑話休題。
そんなわけで、松島をはじめとした三景艦は、日清戦争でロクな戦果を上げることができませんでした。
「砲のデカさよりもスピードや速射が重要になることもある」というデータが取れたため、全くの無駄にはなりませんでしたが……。
松島は、日清戦争のハイライトである黄海海戦でライバル(仮)の鎮遠から砲弾をくらった後はあまり戦闘には出ていません。
やはり、実戦で使うには無理のある船でした。
そして、明治四十一年(1908年)に海軍兵学校の少尉候補生の乗せた遠洋航海中に、帰港した台湾で、火薬庫の爆発により沈没してしまいました。
亡くなった方には気の毒どころではありませんし、台湾としてもいい迷惑だったでしょうね。
鎮遠に撃たれたときにも火薬庫が爆発していますので、修理のときに何か失敗していたのでしょうか……。
楠木正成の坐像が飾られていた河内(かわちorかはち)
大正三年(1914年)に就役しました。
日露戦争の後に建造され、第一次世界大戦に参加した船です。その間には昭和天皇(当時は皇太子)の御召艦として、度々使われていました。
艦名が楠木正成ゆかりの地であることから、正成の坐像が飾られていたそうです。
上記の筑波爆発事故の際、横須賀に停泊しており、救助作業にあたった船の一つでした。
しかし、その1年ほど後に、河内自身も徳山湾で停泊中に爆発事故を起こして沈没してしまっています。暴風雨だったこともあり、殉職者は621名という大惨事になりました。
昭和天皇も思い出の船が多くの人命と共に喪われたことを悼み、侍従武官を慰問に送っています。
残骸の中から正成坐像などは回収できたそうです。いかにも燃えそうなそういうものが残っていても、多くの死者が出てしまうものなんですよね……。
「世界の七大戦艦(ビッグ7)」と呼ばれた陸奥は…
大正十年(1921年)就役で、当時最大級の戦艦でした。艦これでもおなじみですね。
当時、日・米・英・仏・伊の間で結ばれていたワシントン軍縮条約に「今作ってる途中の船は建造中止ね!」(意訳)という項目があったため、あやうくスクラップにされるところでした。
日本側が「実は完成してるんですよ。だから廃棄しません^^^^^^」(※イメージです)とゴネて、何とか完成にこじつけています。
しかし、やはり無茶振りすぎて、アメリカやイギリスは「じゃあウチのこれとこれも”実は”完成してるから、持ってても問題ないよね^^^^^^」(※イメージです)とやり返されてしまっています。
合わせて7隻あったため、まとめて【世界の七大戦艦(ビッグ7)】と呼ばれました。
まるで戦隊モノですが、残念なことに日本だけじゃ揃いません(日本が2隻、アメリカ3隻、イギリス2隻)。
陸奥と同型艦の長門はこうして世界の戦艦の代表とも呼べる存在になり、当時の国民からの人気も絶大。陸奥乗りたさに海軍へ志願する若者も多かったといいます。
来るべき戦争に備えて大幅な改装も行われ、後は出番を待つのみ……に見えました。
しかし、いざ第二次世界大戦が始まってみると、陸奥と長門は「とっておき」としてなかなか実戦に使われませんでした。
出撃しても、なぜか陸奥は敵艦と交戦せずに終わったケースがほとんど。
おそらくはアメリカ軍に陸奥の居所や進路がバレていて、「あんなデカいのとやりあえるか!」と忌避されたのでしょう。また、他の小回りのきく船と比べて、速度が遅かったことも理由の一つでした。
要するに使い勝手が悪かったのです。
「燃料タンク」や「旅館」とバカにされ……
そんなわけで、後に竣工した戦艦・大和や武蔵と同様に後方待機させられることが多くなり、「燃料タンク」や「旅館」とバカにされる日々が続きます。ひでえ。
ですが、南方の戦線は状況が悪くなるばかり。陸奥を始め、生き残った少ない船は一度本土に戻り、再編成が試みられます。
その矢先、停泊していた広島湾で、突如陸奥は爆発事故を起こしてしまったのです。昼食が終わって休憩時間だったといわれています。
主砲をガードするための「砲塔」と呼ばれる部分から爆発し、360トンもある砲塔が艦橋(船の司令施設があるところ。船で一番高い)まで吹き飛んだというのですから、爆発の凄まじさがうかがえるというものです。
360トンがどのくらいかというと、最大サイズのアフリカゾウ36頭分に相当します。よくわかりませんよね。もうちょっと身近なところでいえば、普通自動車36台くらいでしょうか。
それだけの爆発だったため、陸奥は船体の前後二つに折れてしまい、前の部分はすぐに沈んでしまいました。
後ろの部分もその日の夕方には沈んだそうです。
爆発の原因は今もわかっていませんが、直前に陸奥の艦内で窃盗事件が頻発しており、その容疑者の取り調べが行われる直前だったことから、偶然ではなく人為的なものだったのでは……とされています。
もう一つの説としては「爆雷誤爆説」があります。
爆雷というのは対潜水艦用の爆弾で、水中に投げ込むor発射すると、一定の深さまで行ってから爆発するようにできています。
陸奥の事件の一年半ほど前、日本軍の船がこの近辺で爆雷を落としてしまったことがあり、たまたま陸奥が停泊しているときに爆発してしまった……という説です。
これはこれでありえそうな話ではありますが、出来過ぎという気もしますね。
外部犯説もありますが、「火薬庫には不寝番がいるから無理」「昼間なら別ルートで火薬庫に侵入できたんじゃね」などなど錯綜しているようです。
何にせよ、国の顔だった戦艦が国内で、しかも原因不明の事故で沈没、というのはあまりにも衝撃的な事件でした。
そのため、生存者には厳重な箝口令が布かれた上で激戦地に送られたといわれています。
亡くなった人の葬儀も行われず、家族には給料が送られ続けたそうです。すでに「大本営発表」が日常茶飯事になっていた頃ですから、お偉いさんたちは罪悪感のかけらもなかったでしょう。
とはいえ、周辺住民には知られていたらしく、武蔵の乗員の中には「国民から”陸奥が沈んだ”という話を聞いた」という人もいたそうです。そりゃ、360トンが吹き飛ぶような爆発を近隣の人に隠しきれるわけがないですよね。
戦死された方に対してはもちろん、こうした不慮の事故で亡くなられた方たちのご冥福もお祈りしたいと思います。
長月 七紀・記
【参考】
筑波 (巡洋戦艦)/Wikipedia
松島_(防護巡洋艦)/Wikipedia
河内_(戦艦)/Wikipedia
陸奥_(戦艦)/Wikipedia
三笠_(戦艦)/Wikipedia