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【野口源三郎】
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日本スポーツ界の未来を担うための指導者として
日本のスポーツは、なぜ世界のレベルに達せされないのか――。
この問いに対して、かつてよくあったものがこんな答えでした。
「外国人は体格がよいから、日本人では勝てないのだ」
日本人メジャーリーガーが登場しない時代にも、こう言われたもので、そんな偏見は野茂英雄選手以降聞かれなくなりました。
野口が生きた頃は、まさにこうした偏見が主流の時代。
この大きな偏見に、金栗らと共に挑むことになります。
適切なトレーニングを行い、経験を積む。そうすればきっと勝てるようになる。
日本人は劣っているわけではない――野口はそう確信していました。
そして指導者や主宰者として開化。
彼が関わった大会を記事末にリスト化しておきましたので、後ほどご覧ください。
娯楽として楽しみ、気分転換をはかる
野口の悲願は、全国の大学において体育学部が設置されることでした。
願いは、太平洋戦争の後に叶い、野口は日本初の大学体育学部長も務めます。
そして昭和42年(1967年)に享年80で死去する数年前まで、教育とスポーツ振興に尽くした人生でした。
野口のスポーツ指導者としての理論は、このようなものでした。
1. 正しい身体トレーニングによって、発達をはかる
2. 娯楽として楽しみ、気分転換をはかる
3. 国民としてあるべき道徳形成に役立てること
4. 社交性を向上させる
こうした野口の考え方は、現代においても充分通用するどころか、忘れられている部分もあります。
娯楽としてのスポーツです。
例えば昨今ではアスリートが、
「この大会を楽しみたい」
と口にするだけで、叩かれたりするケースがあります。
結果を残せなかったアスリートの態度が明るいだけでバッシングされる傾向すらあります。
国の金で競技をしているくせに何だ――というわけのわからない非難ですね。
日の丸を背負った瞬間から、選手たちは悲壮な覚悟を強要されてしまう。
そういう人にこそ、野口の考えを振り返って欲しいものです。
負けた選手だって、その時点での日本の実力を知らしめ、今後の指導の方向性を示し、きっちりと世界の舞台で経験を積んでいるのです。
確かに結果も大事ですけど、結果だけじゃない。
スポーツとは、身体の発展や体を動かすことによって気分転換をはかり、競技を通して人としての生き方を学び、コミュニケーションをはかる――そのためにあるべきではないでしょうか。
確かに競技を盛り上げるためには、記録や名誉も大切です。
が、それだけではありません。
スポーツを通して人間を形成してゆく――嘉納治五郎にせよ、野口源三郎にせよ、そういう哲学を持っていたのです。
野口源三郎 指導者・主催者としての功績
大正10年(1921年):第五回極東選手権競技大会(上海)の日本選手団代表監督
大正13年(1924年):第八回パリ五輪大会の日本選手団代表監督
昭和5年(1930年):第九回極東選手権競技大会(東京)で準備委員長・設備部委員長・審判長
昭和8年(1933年):陸上競技功労賞
昭和14年(1939年):日本陸上競技連盟理事・大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)理事
昭和16年(1941年):日本陸上競技連盟参与・大日本体育協会参与
昭和17年(1942年):体育特別功労賞
昭和21年(1946年):東京文理大高等師範復興委員会院長
昭和22年(1947年):大日本体育協会評議員・日本陸上競技連盟顧問
昭和23年(1948年):文理大学高等師範新制大学設立委員会委員・新制大学体育学部人事委員・東京教育大学施設委員
昭和24年(1949年):日本体育指導者連盟副会長・東京高等師範代議員・東京教育大学評議員
昭和25年(1950年):東京教育大学評議員体育学部長兼体育専門学校長
昭和26年(1951年):埼玉大学教育学部評議員
昭和28年(1953年):埼玉大学教育学部長
昭和32(1957)年:野口の寄付金を基にして、埼玉県が「野口記念体育賞(→link)」を制定
昭和33年(1958年):東京オリンピック準備委員会委員
昭和34年(1959年):順天堂大学評議員
昭和35年(1960年):紫綬褒章受賞
昭和36年(1961年):日本陸上競技連盟オリンピック東京大会選手強化本部顧問
昭和39年(1964年):勲三等瑞宝章受賞
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『東京教育大学百年史』(→amazon)
『国史大辞典』