昭和十七年(1942年)5月29日は、歌人として有名な与謝野晶子が亡くなった日です。
「みだれ髪」と「君死にたまふことなかれ」は必ず教科書に出てきますから、もはや説明することもない反戦の御方……かと思いきや、実はそうでもなかったりします。
まどろっこしいのでさっそく本題に入っていきましょう。
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貧しかった家で幼少期は割と雑に育てられた
晶子は明治十一年(1878年)に大阪の老舗和菓子屋に生まれました。
といっても与謝野は結婚後の姓であり、晶子もペンネームなので、出生当初の名前は全く違うものです。
旧姓は鳳(ほう)、本名は志よう(しょう)といいました。
「晶」という字は本名と同じ読みもあるからという理由でつけたようですね。
ややこしいのでいつも通り有名なほうの「晶子」で統一させていただきますね。
家業が苦しかった上に三人目の女の子だったため、晶子はあまりかわいがられてはいなかったようです。
その割に漢学塾や琴・三味線などのお稽古事はしていたそうなのでよくわかりませんが。嫁入りの時に箔をつけるためでしょうか。
要は、蝶よ花よと育てられたわけではなく、10歳の頃から放課後に店の帳簿付けなどを手伝っていたそうです。
そして、それが終わった夜中に『源氏物語』などの古典に触れ、文学に親しんでいきました。
与謝野鉄幹と知り合い不倫関係に
学校を出る頃にはお店のことはすっかりできるようになっており、店番の合間に和歌を詠み、投稿するようになっていました。
そして明治三十三年(1900年)。
大阪で開かれたとある歌会で将来の夫・与謝野鉄幹と知り合って不倫関係になります。
同時に鉄幹創立の機関誌「明星」で短歌を発表し、晶子は本格的に文壇デビュー。
しかし、不倫の悪評は拭いきれませんでした。
若さは時にどうにもならないエネルギーを生み出します。
晶子は勘当覚悟で実家を出て、鉄幹の住む東京に引っ越し。同年、処女歌集「みだれ髪」でまたしても世間の話題をかっさらいます。
「女性は慎ましくあるべし」とされていた明治時代に、あまりにも生々しい歌を詠んだのです。
「やは肌の あつき血汐(ちしお)に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」
「乳ぶさおさへ 神秘のとばり そとけりぬ ここなる花の 紅ぞ濃き」
世間の批判はすさまじいもので、今の感覚で言えばR18的な扱いも受けました。
本人は「思うところを正直に詠まなければ歌ではない」と思っていたので堂々としていました。
文壇にも、少数派ではありましたが、味方してくれる人もいましたしね。
明治三十二年(1899年)に高等女学校令が発布
晶子は決して色や愛に溺れるばかりの人ではありません。
明治三十二年(1899年)に高等女学校令が発布され、女学生が珍しくなくなってからの発言がそれを良く表しています。
この法律は、ものすごく簡単に言うと「女子にもより高度な教育を受ける権利を認める」というもので、晶子のように高等教育を受けたくても受けられなかった女性にとっては夢のような話でした。
しかし、実際に恩恵を受けた女学生たちはといえば、勉学に励むよりも流行ものに飛びついて遊んでいる人が大多数。
当時女学生向けに「女学世界」という雑誌があったのですが、これの投稿欄はいわゆるお嬢様言葉(当時は”乙女言葉”と言われていたそうな)で、取るに足らないようなことばかりが書かれていました。
例を挙げるのが難しいのですが、「よろしくってよ」とか、語尾に「~わよ」をつけるような話し方です。
内容にしても「皆さんは日記を書くとき、ペンを使いますか? それとも筆ですか?」といったようなことで、どうにも……。
せっかく紙面で遠く離れた人とやりとりができるのですから、例えば相手の地元の名所や名物を尋ねるとか、もっと意義のあることがあったでしょうにね。
「君死にたもうことなかれ」から38年後…突然…
この流れを見た晶子は、悔しさとうらやましさ、そして不甲斐なさなどが混じった複雑な気持ちだったことでしょう。
「今まではともかく、これからは女子も男子とやりあっていけるだけの教養を身につけなくてはならない」と書いています。
彼女の著作で一番有名な「君死にたまふことなかれ」は、明治三十七年(1904年)9月に「明星」で発表したものです。
今では反戦の代名詞のように扱われ、この詩をもって「与謝野晶子は反戦を詠った素晴らしい女流歌人だ」といわれていますが、実は違います。
晶子はここから38年後に、こんな歌を詠んでいます。
「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍(いくさ)にゆく たけく戦へ」
そうです。
一転して戦争擁護派となったのです。
このため「考えが変わりすぎだろ」と非難する人もいますが、(戦争の良し悪しは全くの別問題として)人の考えが変わること自体は珍しくも悪くもないでしょう。
若い頃はただ一心に「弟が死ぬかもしれないなんてイヤだ!」と思っていたところ、軍に入るほどの歳の子供がいるような年齢になれば「国のために息子が働くことは誇らしい」と思うようになったかもしれません。
もしかしたら、晶子の世間への影響が大きくなり過ぎたために、無難な歌を詠んだのかも?
と一瞬思いましたが、彼女の性格的にその可能性は低そうですよね。
夫を愛して子沢山 もう、色々とバナナっす
なお、「君死にたまふことなかれ」が発表された翌年、「明星」は廃刊になっておりました。
さらに、夫・鉄幹が大学教授になるまでは稼ぎが良くなかったため、晶子は仕事の依頼をすべて引き受けていたそうです。
新聞七紙への寄稿に加えて、他にも小説や論文などを書いていたといいますから、これに子供たちの世話が加わるとなれば、過労死しなかったのが不思議なほどです。
「そもそも生活に余裕がないんだから子供作らなきゃいいだろ」という気もしてきますが、仲が良かったんでしょう。多分。
くれぐれも「与謝野晶子 バナナ」とかで検索するなよ! 絶対だぞ!(突然の命令口調)
夫がそんな感じな上に11人も子供がいたので、晶子はその後も苦労が絶えませんでした。
女性の自立をめぐって文部省に睨まれたばかりか、立場の違いから平塚らいてうと激しく対立。
「女性の自立には経済的独立が必要だ」という主張をしておりました。
平塚らいてうは、出産は国の補助を得るべきだという考えだったのです。
これって今も大きな問題のままですよね。
もちろん晶子の言うような独立ができればよいですが、現実問題、出産や育児は国の礎であり、それを放棄すれば今のような高齢化社会に拍車がかかるだけです。
もう歴史案件ではなく、目の前にある危機だということを今一度私達も考えなければならないでしょう。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
与謝野晶子/Wikipedia
中央出版『その時歴史が動いた』(→link)