『ゲゲゲの人生 わが道を行く』水木しげる(→amazon link)

明治・大正・昭和時代

ゲゲゲの女房モデル・水木しげる&武良布枝夫妻の生涯「なまけ者になりなさい」

水木はこんな回想をしておりました。

【顔の長い父親の横にいた花嫁候補は、相対的に顔が短く見えた。ならばよし!】

照れもあるのでしょう。
素直になれないしげるなのです。

 

背が高すぎる、縁談が来ない……布枝の悩み

さて、そのころ。
島根で暮らす布枝は、縁談を待ちわびておりました。

面倒を見ていた祖母が死去。
家業も人出が足りるようになった。
そうなると、未婚の布枝がいつまでも家にとどまることは、よろしくないと思われるようになったのです。

家を出るのであれば、結婚しかありません。かといって、恋愛結婚ができるわけでもない。
姉二人はもう嫁いでいる。私の番はいつなのかしら?

そう思ううちに、もう29歳です。
平成でも、女性の29歳は適齢期ギリギリとされたりします。

ましてや当時は、30歳も見えてきたらオールドミスで行かず後家。そんな言葉すらよぎりかねない状況です。

布枝は外見上のコンプレックスもありました。
165センチという身長は、当時は高すぎたのです。

『ともかく縁談、縁談、縁談……』
そう願い続けて、ついに叔父が見合い話を持ってきたのです。

しかし……。

◆左腕切断

◆10歳年上

◆貸本漫画家

◆境港出身、東京住まい

見合い相手の情報はその程度。
写真を見れば、かしこまったものではなく、自転車にまたがったものです。

しかし、自然な笑みを浮かべる相手に、布枝は好感を抱きました。
貸本漫画家とは何のことなのか?
それすらはっきりとは理解していないながら、父も反対しないし、この縁談は良いのではないかと前向きに思ったのです。

左腕のことは不安がありました。
それでも仲人が、他は健康だと後押ししたこともあり、布枝はなんとかなりそうだと思ったのです。

そしてついに、迎えたお見合いの日。

しげるは、兄嫁がなかなか付けられず困っていたストーブの火を片腕でつけました。
その親切心に、布枝は好感を抱きます。

裏表がなさそうだ。

都会で暮らしているのに、素朴である。

残された右手が大きい。

包容力はありそう。

美男子というわけでもないけれど、好感は持てる。

これはいい。断る理由はない。
そう周囲と話し合い、スピード結婚になるのでした。

後に、このときしげるが来ていた背広は兄のものであり、自身は質屋に入れていたと知ることになるのですが。

結婚式でも、しげるは無理をしていました。義手をつけていたのです。
しげるは義手が大嫌いでした。そんなものをつけて、見た目だけ取り繕うことそのものが無駄だと思えたのです。

新婚旅行は仕事が多忙という理由でありませんでしたが、実際にはそんな金がなかっただけ。

ともかく、こうして「ゲゲゲの夫妻」は生まれたのです。

 

甘いのか、甘くないのか? 奇妙な新婚生活

結婚後、布枝は驚きました。

花の東京だと思っていたのに、周囲は畑だらけ。
東京の一軒家というから、それなりの家かと思えば、そうでもない。

冬はともかく隙間風で寒い。
一日中忙しそうなのに、金が儲からない。
軍人恩給は頑として受け取らない。

しげるは母を「イカル」と呼んでおりました。この「イカル」に弱いところを見せたくないから、断っていたのです。

そんな夫は、値下げされた腐りかけのバナナを食べることが楽しみ。
かなりの変人夫であったことは、確かです。

しかも照れていたのか、しげるは本音をなかなか妻にすら見せません。

二人で気分転換に、自転車で出歩く楽しみができた。
自分の仕事を見ていて、作画に合わせてまるで百面相みたいと言ってくる。
ベタ塗りやコマ割りを手伝ってくれる。

結婚して、しげるは明るい変化を感じていたことは確かです。
ただそれを、はっきりとは言い出せないのでした。

布枝は、正直なところ、夫の作品が不気味だと感じていました。

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むろん、それでいいんです、妖怪がテーマですから。
彼の持ち味です。

そして、必死で原稿に向かう背中を見ているうちに、布枝の胸に誇りのようなものが湧き上がってきました。

こんなに真剣に、打ち込んでいる。
漫画の良し悪しはわからないけれど、この努力は本物だ。彼女はそう思ったのです。

腐ったバナナをはじめ、食べることへの執着心。
安眠への強いこだわり。

そうした変人と思われそうなことも、それが夫の生きる道なのだ、経験や性格ゆえなのだと、彼女は思いました。
布枝自身も、寛大で柔軟性のある性格だったのでしょう。

なかなかとんでもない結婚生活の始まりではありましたが、彼らの間には、なにかが生まれつつあったのです。

 

絶体絶命のピンチ!から漫画連載へ

そんなこんなで始まった新婚生活。
所帯を持てばいうまくいくというのが、当時のお題目でした。

しかし、現実はそんなに甘いわけもありません。

『墓場鬼太郎』と『鬼太郎夜話』は、出版社側の都合で打ち切りに。
出版社倒産により、未払いの原稿料がそのまま踏み倒されることもありました。

紙芝居の次は、貸本漫画が斜陽の時代へ突入していきます。
そのことに、妻である布枝も恐怖を感じていました。

アシスタントとして出版社と原稿料交渉をする際、値切られてばかりなのです。
夫の作品を貶す相手に怒りを覚えることも多かったとか。

そして知ってしまう、貸本漫画の斜陽という現実。マイペースなしげる本人よりも、妻の方が辛かったのかもしれません。

悪いことは重なります。

調布の家を、登記ミスの発覚によって半分地主に返さなくてはならない。

布枝は妊娠で、出産後の粉ミルクすら買えない

電気料金すら払えず、ロウソクで原稿を描くことも。

新聞すら購読できず、社会の動きについていけない。

作品構想を練るため、墓地公園に行ったまま、道に迷ったしげるが帰ってこない!(翌朝帰宅しました)

絶体絶命でした。

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それが救われたのは、昭和39年(1964年)のこと。
青林堂という出版社が起動し、漫画雑誌『ガロ』が創刊されました。この月刊誌に、毎号掲載されるようになったのです。

原稿料そのものは特別多くはありません。
しかし、エッジの鋭い若者を中心に、この雑誌は大注目を集めます。

そしてガロでの活躍がきっかけとなり、昭和40年(1965年)には『少年マガジン』から依頼がありました。
要請された中身が宇宙ものであったため一度は断ったものの、半年後にテーマの指定なしで再度依頼がありました。

しかも、原稿料は『ガロ』の十倍。
一桁違ったのです。

「おもしろい格闘場面を入れてください。テーマは任せます」

こうして描き上げた『テレビくん』が『別冊少年マガジン』夏休み号についに掲載されました。

 

貧乏神と縁が切れたぞ

「なんだか夢みたい……」

「貧乏神と縁が切れたかもしれんな」

そう語り合う夫妻。貸本漫画どころではない原稿料に、布枝は呆然としています。
しげるは、子供だけではなく大人も楽しめるものを描くと意気軒昂でした。

このあと『週刊少年マガジン』にて、『墓場の鬼太郎』(のちの『ゲゲゲの鬼太郎』)連載が始まります。

43歳という遅咲きのブレイクですが、それも無駄ではありませんでした。
下積み時代の苦労があればこそ、仕事をこなすことができたのです。売れっ子漫画家とパーティで顔を合わせることもあり、布枝は驚くばかり。

それだけではありません。
『墓場の鬼太郎』は、第13回講談社児童漫画賞を受賞したのです。ついにここまで来たのでした。

大手出版社から仕事が舞い込むようになりました。
貧乏神どころか、福の神が微笑んだような状況。しげる本人も、俺には守護霊がいると言っていたそうですが、それも照れかもしれません。

彼の才能、知性、努力あればこそ、成功できたのは言うまでもないでしょう。

 

水木プロダクションの日々

昭和41年(1966年)、自宅に「水木プロダクション」が設立されました。
この年、次女も誕生しています。

テレビでは『悪魔くん』実写版が放送開始で、まさに売れっ子作家でした。

先生と呼ばれ、大勢の編集者が自宅に来訪し、喜んでいたしげる。
あまりの多忙さゆえに、締め切り前の編集者を恐れるようになっていきます。睡眠時間も4~5時間にまで減ってしまうのでした。

アシスタントも、来るものは拒まず状態であったものの、それでは仕事がうまく回りません。
しげるは変人が好きで、好奇心からそれだけで採用するところもありました。

厳しい選抜を行うようにした結果、つげ義春がやってきました。
彼ならば自分の作風にあうと、見込んでのことですが、後に一筆「ヤスミタイ」とだけ残して去ってしまい、周囲をやきもきさせました。
しげるはいつまでも、彼のことを気にしていたようです。

池上遼一もアシスタントの一人でした。
彼の絵のうまさは際立っていたとか。それも納得です。

銀行員だという27歳の青年が来た時には、しげるは「銀行員のほうがいいだろう」追い返してしまいました。しかし彼は諦めきれずに、アシスタントになったのです。
彼こそが、のちに『釣りキチ三平』を描く矢口高雄でした。

こうしたアシスタントとの交流、古本屋めぐりが、しげるの大事な息抜きでした。

 

売れっ子は楽しいだけじゃない

それまで時流に乗り損ねたしげるは、テレビ普及にはうまく乗ることができました。

昭和43年(1968年)にタイトルを改めた『ゲゲゲの鬼太郎』がアニメ化されると、大ヒット。
実写版『河童の三平』も放映され、世は妖怪ブームとなるのです。

金銭的にも贅沢ができるようになりましたが、しげるは浮かれません。
質素な服装で過ごしていました。睡眠時間が短いとぼやき、売れっ子になるのもよいことばかりでないとしみじみと語っていたそうです。

ただ、世間の考えることではない道楽には金を使いました。

家の改築。
家の中に積まれる鬼太郎グッズ。
妖怪グッズ集め。

そういうことには、ともかくこだわったのです。

世の浮沈にあまり左右されない、性格である一方、自分の好きなものには異常にこだわる。幼い頃から一貫性があるといえば、そうです。

親の心子知らずと言いますか、ちょっと面白い話もあります。

水木しげるの娘は、手塚治虫の漫画が好きで集める。

手塚治虫の息子は、水木しげるの漫画が好きで集める。

そんな不思議な現象もあったそうです。

昭和46年(1970年)には、ついに連載が11誌になりました。
すると目眩と耳鳴りに悩まされ、「死にます!」が口癖になってしまいます。

布枝も、さすがに何か寂しい。
二人には転機が必要でした。

 

トライ族はパウロを覚えていた

昭和47年(1971年)。
しげるは鬼太郎イベントで、ある人物に声をかけられました。

その瞬間、彼は背筋がピンと伸びてしまったのです。

「おまえも、随分偉うなったもんやなあ」

宮一郎軍曹でした。彼は鬼軍曹というよりも、威張らない気さくな性格でした。
そうでなければ、しげるも逃げ出したかったことでしょう。

しかも、この上官と部下には共通点がありました。
あのラバウルの生活がどうしても忘れられないのです。

二人は喫茶店で、昔の思い出を語り合いました。

地獄のような日々であったものの、あの景色は美しかった。
思い出すために、ブーゲンビリアを庭で栽培しているけれども、どうにも物足りない。彼はそう語るのです。

「どや、一緒に行かへんか」

宮に誘われ、しげるの胸にトライ族との約束が思い出されました。
約束の7年どころではない時が流れたけれども、行きたい。

そしてその秋、宮から旅行の予定表が届きます。
驚きをもって受け止めたしげるでしたが、行く決意を固めます。戦友同士でその年末、南方の土を踏んだのです。

戦没者の霊を弔うと、ひらひらと蝶々が飛んでくる。
日本兵の魂なのか。そう思うしげる。

そろそろ帰ろうかというとき、しげるは、原住民の青年にこう聞いてみました。

「トヘペロ(知り合った原住民)の家を知っているか?」

「あなたはひょっとしてパウロ?」

しげるは驚きました!
戦時中、彼はまだ赤ん坊だったものの、片腕のパウロのことは語り継がれていたのです。

しげるが村を訪れると、皆が彼を大歓迎しました。
当時幼かった者、生まれてすらいなかった者でも、語り継がれたパウロを知っていたのです。

 

妖怪の世界に戻ろう

大歓迎を受け、パウロに戻ったしげる。
彼の胸に、人生の原点が思い浮かんできました。

そうだ、鬼太郎の世界は、この世界にそっくりだ。

おばけには学校も試験もない。昼はのんびりお散歩だ。
締め切りもない。ねじり鉢巻きをして原稿を描かなくてもいい。

みんなで歌う世界。これこそ、あの世界じゃないか!

あの売れっ子漫画家の世界と、この世界。
どちらが自分に向いているのか?

しげるは思いました。
来年は50歳を迎える。そろそろ原点回帰、ルールに戻るべきであると。
貧乏暮しを思い出すと、ちょっと怖かったものの、自分のルールを取り戻すことを、彼は誓ったのです。

帰国後、しげるは南方で撮影した映像を見せて、移住計画を熱心に語り始めます。
布枝も娘も、一体どうしたことかと呆れ半分でありました。

しげるはこのあとも、南方へ向かったことがあります。
トライ族の村にも文明が及び、それは惜しまれることでした。

しげるは、仕事をセーブしました。本当に好きなものだけを描く。
興味を持てば、いろいろと手を出す。世界の妖怪行脚にも出かけていく。そしてビビビと来た妖怪グッズを、世界単位で妖怪グッズを買ってしまう。

そういうマイペースさこそ、幸せなのだと悟ったのです。

水木しげるは、幸せの極意を考え続けました。
会員は本人だけという「幸福観察学会」を結成していたとか。

努力しろ、努力しろというけれども。それに見合った幸せが得られるとは限らない。
才能がないのに努力しても、疲れるだけ。
努力と同じだけ、諦めも肝心。

幸せになる方法を広めたいと思うしげるでしたが、だんだんと自分の幸せだけに興味が湧くようになっていったそうでして。

好きなことだけやりなさい。
好きなことだけ、一生懸命やりなさい。それがしげるの結論でした。

とはいえ、水木しげるとは、自分だけ楽しむ人物でもありません。
気が向けば、のんびりと家族旅行にも出かける。布枝には、いくらかかってもいいから着物を作れと勧める。

そういう思いやりもありました。
妻にも娘にも優しい父であったのです。

 

飄々とした晩年に

水木しげるの晩年は、飄々としたものでした。

故郷には水木しげるロードが作られ、テレビドラマの題材となり、有名人との交流もある。
しかも、国際的にも華々しい受賞歴もある。

それでも浮沈とは少し距離を置く――そんな生き方です。

持ち前の鋭い直感、奥深い知性、理解力。
そうしたものをひけらかすわけでもなく、人を食ったようなことを言い続けました。

「なまけ者になりなさい」

「がんばるなかれ」

「のんきに暮らしなさい」

それこそが、彼の見出した幸運の秘訣なのでしょう。
勤労、忠誠、ルールへの盲従が認められた軍隊では、浮いてきたことがよくわかります。

いや、平時の日本でも、こんなことを堂々と言うのは難しいかもしれません。

しかし、だからこそ、彼の言葉は燦然と輝くものがあるのではないでしょうか。

平成27年(2015年)。
水木しげるは亡くなりました。本人が予言していた100歳までは及ばない、享年93です。

しかし、本当に死んだのでしょうか?

彼はこの世から消えてしまったのかどうか。
そう疑いたくなるほど、存在感は残り続け、そして今後消えることもないでしょう。

この世のどこかで、彼はのんびりと暮らしている。
そんな気がするのです。
(文中敬称略)

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文:小檜山青

【参考】
『ゲゲゲの人生 わが道を行く』水木しげる(→amazon link
『ゲゲゲの女房』武良布枝(→amazon link
『「その後」のゲゲゲの女房』武良布枝(→amazon link

 



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