水木しげる

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明治・大正・昭和

「怠け者になりなさい」心が少し軽くなる水木しげる&武良布枝の生涯を振り返る

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水木プロダクションの日々

昭和41年(1966年)、自宅に「水木プロダクション」が設立されました。この年、次女も誕生しています。

テレビでは『悪魔くん』実写版が放送開始で、まさに売れっ子作家でした。

先生と呼ばれ、大勢の編集者が自宅に来訪し、喜んでいたしげる。

あまりの多忙さゆえに、締め切り前の編集者を恐れるようになっていきます。睡眠時間も4~5時間にまで減ってしまうのでした。

アシスタントも、来るものは拒まず状態であったものの、それでは仕事がうまく回りません。しげるは変人が好きで、好奇心からそれだけで採用するところもありました。

厳しい選抜を行うようにした結果、つげ義春がやってきました。

彼ならば自分の作風にあうと、見込んでのことですが、後に一筆「ヤスミタイ」とだけ残して去ってしまい、周囲をやきもきさせました。しげるはいつまでも、彼のことを気にしていたようです。

池上遼一もアシスタントの一人でした。

彼の絵のうまさは際立っていたとか。それも納得です。

銀行員だという27歳の青年が来た時には、しげるは「銀行員のほうがいいだろう」追い返してしまいました。しかし彼は諦めきれずに、アシスタントになったのです。

彼こそが、のちに『釣りキチ三平』を描く矢口高雄でした。

こうしたアシスタントとの交流、古本屋めぐりが、しげるの大事な息抜きでした。

 


売れっ子は楽しいだけじゃない

それまで時流に乗り損ねたしげるは、テレビ普及にはうまく乗ることができました。

昭和43年(1968年)にタイトルを改めた『ゲゲゲの鬼太郎』がアニメ化されると、大ヒット。

実写版『河童の三平』も放映され、世は妖怪ブームとなるのです。

 

金銭的にも贅沢ができるようになりましたが、しげるは浮かれません。質素な服装で過ごしていました。

睡眠時間が短いとぼやき、売れっ子になるのもよいことばかりでないとしみじみと語っていたそうです。

ただ、世間の考えることではない道楽には金を使いました。

家の改築。

家の中に積まれる鬼太郎グッズ。

妖怪グッズ集め。

そういうことには、ともかくこだわったのです。

世の浮沈にあまり左右されない、性格である一方、自分の好きなものには異常にこだわる。幼い頃から一貫性があるといえば、そうです。

親の心子知らずと言いますか、ちょっと面白い話もあります。

水木しげるの娘は、手塚治虫の漫画が好きで集める。

手塚治虫の息子は、水木しげるの漫画が好きで集める。

そんな不思議な現象もあったそうです。

昭和46年(1970年)には、ついに連載が11誌になりました。

すると目眩と耳鳴りに悩まされ、「死にます!」が口癖になってしまいます。

布枝も、さすがに何か寂しい。

二人には転機が必要でした。

 


トライ族はパウロを覚えていた

昭和47年(1971年)。

しげるは鬼太郎イベントで、ある人物に声をかけられました。

その瞬間、彼は背筋がピンと伸びてしまったのです。

「おまえも、随分偉うなったもんやなあ」

宮一郎軍曹でした。

彼は鬼軍曹というよりも、威張らず気さくな性格でした。そうでなければ、しげるも逃げ出したかったことでしょう。

しかも、この上官と部下には共通点がありました。あのラバウルの生活がどうしても忘れられないのです。

二人は喫茶店で、昔の思い出を語り合いました。

地獄のような日々であったものの、あの景色は美しかった。

思い出すために、ブーゲンビリアを庭で栽培しているけれども、どうにも物足りない。彼はそう語るのです。

「どや、一緒に行かへんか」

宮に誘われ、しげるの胸にトライ族との約束が思い出されました。

約束の7年どころではない時が流れたけれども、行きたい。

そしてその秋、宮から旅行の予定表が届きます。

驚きをもって受け止めたしげるでしたが、行く決意を固めます。戦友同士でその年末、南方の土を踏んだのです。

戦没者の霊を弔うと、ひらひらと蝶々が飛んでくる。日本兵の魂なのか。そう思うしげる。

そろそろ帰ろうかというとき、しげるは、原住民の青年にこう聞いてみました。

「トヘペロ(知り合った原住民)の家を知っているか?」

「あなたはひょっとしてパウロ?」

しげるは驚きました!

戦時中、彼はまだ赤ん坊だったものの、片腕のパウロのことは語り継がれていたのです。

しげるが村を訪れると、皆が彼を大歓迎しました。

当時幼かった者、生まれてすらいなかった者でも、語り継がれたパウロを知っていたのです。

 

妖怪の世界に戻ろう

大歓迎を受け、パウロに戻ったしげる。彼の胸に、人生の原点が思い浮かんできました。

そうだ、鬼太郎の世界は、この世界にそっくりだ。

おばけには学校も試験もない。昼はのんびりお散歩だ。締め切りもない。ねじり鉢巻きをして原稿を描かなくてもいい。

みんなで歌う世界。

これこそ、あの世界じゃないか!

あの売れっ子漫画家の世界と、この世界。

どちらが自分に向いているのか?

しげるは思いました。

来年は50歳を迎える。そろそろ原点回帰、ルールに戻るべきであると。

貧乏暮しを思い出すと、ちょっと怖かったものの、自分のルールを取り戻すことを、彼は誓ったのです。

帰国後、しげるは南方で撮影した映像を見せて、移住計画を熱心に語り始めます。

布枝も娘も、一体どうしたことかと呆れ半分でありました。

しげるはこのあとも、南方へ向かったことがあります。トライ族の村にも文明が及び、それは惜しまれることでした。

しげるは、仕事をセーブしました。

本当に好きなものだけを描く。興味を持てば、いろいろと手を出す。世界の妖怪行脚にも出かけていく。そしてビビビと来た妖怪グッズを買ってしまう。

そういうマイペースさこそ、幸せなのだと悟ったのです。

水木しげるは、幸せの極意を考え続けました。

会員は本人だけという「幸福観察学会」を結成していたとか。

努力しろ、努力しろというけれども。それに見合った幸せが得られるとは限らない。

才能がないのに努力しても、疲れるだけ。努力と同じだけ、諦めも肝心。

幸せになる方法を広めたいと思うしげるでしたが、だんだんと自分の幸せだけに興味が湧くようになっていったそうでして。

好きなことだけやりなさい。

好きなことだけ、一生懸命やりなさい。

それがしげるの結論でした。

とはいえ、水木しげるとは、自分だけ楽しむ人物でもありません。

気が向けば、のんびりと家族旅行にも出かける。布枝には、いくらかかってもいいから着物を作れと勧める。

そういう思いやりもありました。

妻にも娘にも優しい父であったのです。

 


飄々とした晩年に

水木しげるの晩年は、飄々としたものでした。

故郷には水木しげるロードが作られ、テレビドラマの題材となり、有名人との交流もある。

しかも、国際的にも華々しい受賞歴もある。

それでも浮沈とは少し距離を置く――そんな生き方です。

持ち前の鋭い直感、奥深い知性、理解力。そうしたものをひけらかすわけでもなく、人を食ったようなことを言い続けました。

「なまけ者になりなさい」

「がんばるなかれ」

「のんきに暮らしなさい」

それこそが、彼の見出した幸運の秘訣なのでしょう。

勤労、忠誠、ルールへの盲従が認められた軍隊では、浮いてきたことがよくわかります。

いや、平時の日本でも、こんなことを堂々と言うのは難しいかもしれません。

しかし、だからこそ、彼の言葉は燦然と輝くものがあるのではないでしょうか。

平成27年(2015年)。
水木しげるは亡くなりました。

本人が予言していた100歳までは及ばない、享年93です。

しかし、本当に死んだのでしょうか?

彼はこの世から消えてしまったのかどうか。

そう疑いたくなるほど、存在感は残り続け、そして今後消えることもないでしょう。

この世のどこかで、彼はのんびりと暮らしている。

そんな気がするのです。

(文中敬称略)

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

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自著『水木サンの幸福論』(→amazon

【参考】
水木しげる『ゲゲゲの人生 わが道を行く』(→amazon
武良布枝『ゲゲゲの女房』(→amazon
武良布枝『「その後」のゲゲゲの女房』(→amazon

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