水木しげる

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明治・大正・昭和

「怠け者になりなさい」心が少し軽くなる水木しげる&武良布枝の生涯を振り返る

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「ビンタの王様」と呼ばれ、そして死地へ

ラバウルで茂は「ビンタの王様」と呼ばれました。

穴掘り作業をこなしても、ともかくうまくいかない。すると上官が彼に目をつけます。

なんとかこなしても、目をつけられているからにはビンタ。

何をしてもマイペース、そこでビンタ。

茨城県出身上官の言葉が聞き取れず、これまたビンタ。

ビンタで済めばまだよいほうで、ともかく「死ね!」とばかりに前線へ送られます。

最前線のズンゲンへ向かい、海岸沿いの見張りをやらされることになりました。連合軍が上陸したことを知らせるわけで、最も危険な役どころです。

ジャングルの中、現地民の集落を通り過ぎながら、海岸を目指していきます。

遺書も書き残し、悲痛であったようで、それでもマイペースさも残していました。

なんせ双眼鏡で見張りながら、その美しい絶景に心を奪われていたのです

ある日、朝日を眺めながらオウムの美しさに心奪われていた茂。その耳に、パラパラという自動小銃の発射音が聞こえてきました。

想定していた海からではありません。

敵は、回り込んで背後の山からやってきていたのです。

茂は死に物狂いで走り抜きました。

二、三時間駆け抜け、気づけば軍靴がボロボロになって、足は血まみれ。これではいかんと、褌一丁になって海へ飛び込みます。

天皇陛下の銃を大事にしろと言われたものですが、生きるためにはそうも言っていられません。

彼の知恵、神経、機転、観察眼――何もかもが、生きるためだけに使われていました。

しかし、彼は海の中で愕然とします。

夜光虫がたかり、全身が光っているのです。上陸して逃げようとすると、今度は蚊がたかってくる。

飢と渇き。

あまりのことにヤシの実を取り、叩きつけて割るものの、中身はすぐに地面に吸い込まれていく。

もう無我夢中で、幽霊のような半死半生で歩くしかない。

すると目の前に、巨大な壁が立ちはだかった。もうだめだ、進めない。

ばったりと倒れて寝て、目覚めたら、そこに壁はありませんでした。

代わりに朝の光の中で見えたのは、断崖絶壁ではありませんか。

あの壁が、ここからの転落を防いだのだろうか?

あれは何だったんだ。

もしかしたら……妖怪ぬりかべ……。

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茂は、壁の幻を「ぬりかべ」だったと回想しています。

妖怪ぬりかべが、命を救ってくれたのだ!と。

五日間さまよい、やっと海軍小隊基地にたどりつきました。

砂糖水を飲み、そのおかわりを断られたことで、やっと夢でないと悟ることができたのです。

 


失われた左腕

陸軍に戻った茂は衝撃を受けます。

「天皇陛下の銃を置き去りにしおって、よく戻ってこられたな」

「死んだ仲間を残して戻るとはな。お前の死に場所を見つけてやる」

歓迎、慰労どころか、邪魔者扱い。それからまたビンタづくしの日々に戻るのです。

その後、山中の基地攻撃命令を受けた茂は、マラリアに罹ってしまいます。

10日ほど寝込み、やっと回復しかけたところで、基地に空襲。

気がつけば茂は左腕に重傷を追っていました。衛生兵がそばにいなければ、命すら落としたことでしょう。

バケツ一杯の出血。
激痛。
もはや左腕切断しか、助かる道はない。

軍医が無麻酔で切断する地獄を終えて、彼はこう告げられます。

次にマラリアになれば、一巻の終わりだ――。

そう宣告されつつ、治療に励む茂。周囲を見渡せば、次から次へと仲間が死んでいく最中、2ヶ月ほどすると腕から赤ん坊に似た匂いがするようになりました。

『これが再生と命のにおいか』と、茂は悟ります。

その後、負傷者はココボからナマレの野戦病院へ移送されました。

自決を強要されるという不穏な噂もあり、茂もそれが心配でした。実際に自決を強要された隊もあり、いつそうなってもおかしくない状況であったのです。

茂は『総員玉砕せよ』という戦争経験を基にした漫画を描いています。

きっと、死んでいった戦友に描かされたんだ――。

そう振り返っています。

「だから【戦争はしないほうがいい】というのは、自然の声だと思いますよ」

彼はそう語り残しているのです。

 


そこは地上の楽園だった

ナマレの野戦病院は、予想に反してノンビリしたところでした。

軍律がゆるく、清掃や畑仕事をこなしながら過ごすことが許されていたのです。

茂は幸運でした。

左腕を無麻酔で切断されて、幸運も何もあったものではないように思えますが、死なないだけでも強運だったのです。

不満は、空腹でした。

そこで彼はジャングルで食料を探すことにします。

が、考えることは皆一緒。

比較的採取しやすい場所のヤシの実やバナナは先に食べられ、もう残っておりません。

奥地へと進み、ゼンマイのようなものを煮てみるものの、アクが強くて食べられない。

食料を求めて彷徨い歩いていると、トライ族という住民の集落を見つけたのでした。

目が合うと、彼らはにっこりと笑ってきます。微笑み返すと、なんと誘ってくるではありませんか。しかも、食事まで振舞ってくれたのです!

茂はそれからしばしば、この集落に足を運びます。

はじめのうちはタバコと交換していたのですが、そのうちパイナップルやイモを与えてくれるように。会話もろくにできないけれども、茂には特技がありました。

棒切れで絵を描くと、彼らは目を輝かせて喜びました。

たまたま残されていた聖書を朗読したところ、その名前を何度も呼んだことから、茂は「パウロ」と呼ばれるようになりました。

茂は哲学書や聖書を好んでおり、出征前からよく読んでいたのです。

そこは茂にとって理想の社会でした。

三時間ほど働き、あとはのんびりと暮らす。人々は「パウロ」のために畑を作り、マラリアで彼が寝込むと、見舞いにまで来てくれたほどです。

軍隊という地獄と、トライ族集落という天国。そこに茂はいたのでした。

そんな天国の日々が終わるときが訪れます。

終戦を迎えたのです。

戦争で命が塵芥のように散らされることに、茂は心の底から嫌気が差していました。

終戦は悔しいどころか、嬉しくてたまりません。

心残りといえば、トライ族のことでした。このことを告げると、彼らはこうまで言ったのです。

「パウロ、ここで暮らせ。大きな畑も作ってやる、家もだ。結婚してここに残れ。一緒に暮らそうじゃないか」

茂はグッと来ました。

ここでの生活の方が、自分らしく生きていける。除隊して現地で暮らそうか。そう本気で思ったのです。

しかし、軍医に相談すると驚かれてしまいます。

「いや、家族にせめて相談してからにしなければ」

そう言われて、茂は一時帰国してまた戻ってもよいかと判断するのでした。

それをトライ族に告げるのです。

「10年もしたら戻ってくる」

「10年だと? 3年で戻って来い!」

「じゃあ、間をとって7年後にしようか」

そう告げると、トライ族は盛大な送別会を開催してくれました。歌い、踊り、別れを惜しんだのです。

復員後も、茂の心には彼らのことばかりがよぎりました。

あの地上の楽園で暮らしたこと。世界中の人々が、あんなふうに生きたら、悩みなんてないだろう。そう信じていました。

彼はその生涯を通じて、トライ族を思い続けます。

戦争は苦しいことばかりでしたが、トライ族との出逢いは、貴重な思い出として残されたのです。

ここで、茂の見解もちょっと辿ってみましょう。

「(好かれたのは)他の軍人のように威張ったりしなかったから」

日本人はともかくスゴイ! どこに行っても好かれ! と、そんなワケはありません。

トライ族にこれほどまでに歓迎された茂は、日本社会ではむしろ除け者にされておりました。軍隊では、さっさと死ねばよいという扱いです。

茂とトライ族の交流に感動するだけでは不十分であり、その点を深く考えてみますと……彼が愛されたのは日本人だったからではありません。

彼が彼であったからなのです。

※『野火』もあわせて見たい作品です

茂本人にとって、帰国は不本意でした。

しかし、そのことで動く運命もあるのです。

 

帰国して

昭和21年(1946年)、茂は復員しました。

突然隻腕となった我が子を見たら、両親が衝撃を受けるだろうと思いました。

そこで腕傷口の再手術を待つ間、ハガキでそのことを親に知らせました。

親は驚きました。

母は、左腕を三角巾で固定して、隻腕生活を体験してみたそうです。父も、片腕でできる仕事を探しました。

なんとも切ない親心ではあります。

しかし、片腕だから休めどころか、片腕でも働くことが前提――それが日本社会だと思わされるわけです。トライ族と共に茂が暮らしたいと願った理由も、わかる気がします。

結果的に再手術は医者の人数不足で後回しとなり、茂は実家に戻ります。

両親は左腕切断に複雑そうな顔でしたが、本人は命があるだけでもよいと受け止めていました。

故郷でスケッチをして過ごし、神奈川の病院での手術を待つ日々。その間、東北で闇米を販売し、金を落とすということもありました。

傷痍軍人として募金を集めたり。リヤカーで魚を売ったり。

彼のような傷痍軍人は珍しくない、そんな時代です。

そうこうするうちに、茂の中である欲求が蘇ってきます。

絵を描きたい――。

そこで果たしたのが武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)への入学。夜間中学三年で召集され、本来は受験資格すらない彼は、なんとか卒業証明をもらいました。

はじめのうちこそ熱心に油絵を描いていましたが、だんだんと現実を把握していきます。

敗戦後の復興期では、絵を買う余裕なんて人々にはないのです。

これでは食っていけません。

画家は金持ちにしかなれないと教師からも言われ、茂は方向転換。金を儲けることにして、学校は中退しました。

絵で金を稼げるようになりたい。しかし、そのためには金を稼がねばならない。

なんだか混沌としてきました。

魚屋の権利を売って、輪タク業(自転車に客席をつけたタクシー)へ。

ところがこれも、自動車の普及で廃業。傷痍軍人として募金旅行に出たものの、ちっとも金が集まらない。

そうして神戸に行ったところで、安宿の女将が「この宿を買ってくれ」と泣きついてきます。

普通ならば突っぱねるところですが、茂は違います。

アパートにして経営するってのはどうだ。

大屋になれば、働かずとも食べていけるのではないだろうか。

懐うが早いが輪タクを売り払うと、父にも金を出してもらい、アパート経営に乗り出しました。

 


紙芝居作家・水木しげる誕生

行き当たりばったりにも思われかねない、そんな茂の人生。

義兄が巣鴨プリズンに収監されており、彼の家族も見捨てられない。その健気さを表彰しようという動きもありましたが、茂は断っています。

水木通りにあったアパート「水木荘」の経営も、楽どころか魑魅魍魎の世界でした。

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なかなか入居者が集まらない。集まったと思ったら、わけありだらけ。

国際ギャング団、空き巣犯、ストリッパー……そんな入居者ですから、家賃を踏み倒されることばかりでした。

そんな中に、紙芝居作家がいました。

絵で食っていけるなんて羨ましい――そう話したところ、林画劇社を紹介されます。

茂は阪神画劇社に移りながら、紙芝居を手がけます。

ペンネームとして「水木しげる」と名乗ったのは、このときから。

アパートの名前から、彼は水木さんと呼ばれていました。編集者から本名を覚えてもらえず、ならばもういいや、と名乗ることにしたのです。

とはいえ、この紙芝居もそう稼ぎになりません。

原稿料も、ろくにもらえない。生活は楽にはならない。好きな絵を描くことが仕事になったとはいえ、決して楽ではないのです。

生活は困窮し、結局「水木荘」を手放す羽目に……。

追い詰められて、紙芝居に没頭するしかありませんでした。

本稿もここから先、本名ではなくペンネーム表記に変更します。

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