以前、お雑煮の歴史について調べたところ、ハッキリとは地域性が見えにくい地方がありました。
「北海道」です。
複数の出身者に聞いてみたところ、これがバラバラ。
「宮城県からの開拓団だから、東北の味ですかね……」
なんていかにもありそうな答えが来たり、
「ご先祖様の土地から習ったもので、香川県がベースじゃないかな」
という意外な地域からの答えが来たり。
考えてみれば、北海道は明治時代以降、全国各地から色んな人々が入植した土地なんですよね。
では、いかなる事情で、彼らは新天地で暮らすようになったのか?
ゴールデンカムイのフィナーレから依然として注目度の高い北海道開拓について追ってみたいと思います。
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明治以前の移民
北海道への移住は明治から――。
と書いておいてなんですが……実は江戸時代以前にも移住者はおりました。
・本州の戦乱を避けた
・漂流民が住み着いた
・島流しになった
・奥羽が凶作で、作物を求めて渡来した
・アイヌと交易していて、そのまま住み着いた
・砂金目当てで住み着いた
・砂金目当てのふりをした切支丹(ただし多くが発覚し、処刑)
ざっとこんな理由ですね。
江戸時代、この地は松前藩の領土でした。
ただ、本格的な移民というよりは、現地の人々と交易をして利益を得ることが目的。
かなり潤っていたようで、下掲のお城野郎さんの記事でも、その辺の事情が詳しく記されております。
松前城は単なる1万石の城にあらず~鎖国で潤う超リッチな藩だった
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ロシア船の南下が目立つようになったのは18世紀末あたりからで、幕府も、警備のための移住が必要と認識するようになりました。
しかし、過酷な気候で中々うまく進みません。
幕末には、奥羽諸藩に蝦夷地内に領土を与えて移住を促すものの、政治的混乱もあり、失敗に終わりました。
誤解されがちな幕末の海外事情~江戸幕府は無策どころか十分に機能していた
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「開拓使」設置と初期の移民
年号が慶応から明治に変わった、激動の時代。
幕府に忠義を尽くした榎本武揚や土方歳三が夢見た「蝦夷共和国」は、半年ほどで解体しました。
土方歳三35年の生涯まとめ~幕末を生き急いだ多摩のバラガキが五稜郭に散る
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箱館戦争で土方が戦死し榎本が降伏するまで何が起きていた? 佐幕派最後の抵抗
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そこで明治新政府は「開拓使」を設置。
蝦夷地あらため北海道へ、組織的な移民が始まることになります。
ただ、これまた当初から問題がありました。
・藩閥政治の影響でモメる(佐賀系の開拓使に、長州系の兵部省が文句をつける)
・その結果「北海道まで来たけど、どこへ落ち着けばいいんですか?」状態の集団が発生
・募集がざっくりしていて、素行の悪いアウトローも入り込む
・ろくな装備もないまま移住させて、冬期間にバタバタと死人を出す
こんな調子でかなり混乱したようです。
また、志願した移民は、奥羽諸藩の士族が多数含まれておりました。
戊辰戦争で敗北し、行くところを失った士族たちが、新天地を求めて応募してきたのです。
戊辰戦争のリアルは悲惨だ~生活の場が戦場となり食料を奪われ民は殺害され
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なかなかエグい話ではありますが、新政府としては、
「政府に逆らった連中が移民となって苦労しても、仕方ない。流刑と移民の一石二鳥」
という発想もあったことでしょう。
イギリスの流刑地であったオーストラリアを彷彿とさせる関係です。
本サイト編集人氏のご実家・ご先祖様も、まさにこの開拓団一員だったようで、岩出山城主の伊達邦直と共に移り住んだとのこと。
肖像画の下に書かれた解説文を簡潔にマトメますと、以下の通り。
戊辰戦争に敗れて禄高を削減。
開拓を決意して、1871年に厚田郡へ移住するも、不毛の地だったため1872年に当別町へ移住した。
1881年、開拓の功により従六位に叙せられる。
文面だけではさほどの苦闘は感じられませんが、実態はほぼ流刑状態で、当初、奥羽士族以外は少なかったようです(小説『石狩川』(→amazonで無料)に詳しく描かれてます)。
それでも、彼らが根性で道を切り拓くニュースが伝わると、ぼちぼちと他の移民も増えてきます。
北海道の豊かな自然を目当てにして、漁業や農業で身を立てよう――。
そんな再チャレンジを決意させる大地、それが明治初期の北海道でした。
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