1945年のクリスマス―日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝

明治・大正・昭和

日本国憲法の一部を起草したベアテ・シロタ・ゴードン 多国語を操る才女

歴史の陰に、無名の一般人が関わっていた――そんな話は意外と多いですよね。

というか歴史的偉業は、数多の無名な人々に支えられて成立するものであり、今回は、ある女性に注目してみたいと思います。

1923年(大正十二年)10月25日は、ベアテ・シロタ・ゴードンが誕生した日です。

「誰だ、それ?」というツッコミが早くも聞こえそうですが、実は彼女、
「日本国憲法草案の一部を作った」
という女性です。

その他にもいろいろと有名なエピソードを持っています。

 


父は「リストの再来」と呼ばれるほどのピアニスト

ベアテは、現在のウクライナ・キエフ出身の両親の元、ウィーンで生まれました。

父はユダヤ人ピアニストのレオ・シロタ。
母はユダヤ人貿易商の娘で、オーギュスティーヌといいました。

父も母も1917年のロシア革命以降、ユダヤ人排斥によって母国に帰れなくなり、オーストリア国籍を取得していたそうです。
そのため、ベアテの最初の国籍はオーストリアとなりました。

父・レオは「フランツ・リストの再来」と呼ばれるほどの技術を持つピアニストで、文字通り世界中を飛び回っていた人です。

そしてハルビンでの公演をしたとき、山田耕筰がレオの演奏を聞き、日本での公演を依頼したことで、日本との縁ができます。

レオは来日後、一ヶ月に16回もの公演を行うというハードスケジュールをこなしました。
山田は改めてその腕を買い、東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に迎えたいと誘いかけます。

当時は第一次世界大戦が終わったばかりで、ヨーロッパの情勢は不安定でした。
そのため公演がキャンセルされることも珍しくなく、レオとしては収入の安定化を図れる場所に住みたかったようです。

すぐには承諾しなかったのですが、ドイツを中心としたヨーロッパで反ユダヤ主義が広まったため、身の安全を確保する意味もあり、1929年に再度来日しました。
そのままとどまっていたら、おそらく彼らの人生は全く違うものになっていた……というか、道半ばで終わっていたでしょうね。

 


全員黒髪黒目の日本人を見て「みんな兄弟なの?」

レオは、東京音楽学校のピアノ科教授に赴任しました。

当時の東京音楽学校は、西洋から優秀な音楽家が集まっていたそうです。
おそらく、レオと同じように考えて日本へやってきた人が多かったのでしょう。

ベアテは、このとき5歳。
初めて日本にやってきたとき、道行く人々が全員黒髪黒目であることを不思議に思ったそうです。
現代では日本でもいろいろな民族の人がいますし、日本人の中でも色素の濃い人薄い人などいろいろいますが、幼い彼女には見分けがつかなかったのでしょう。

そして、母オーギュスティーヌに「この人たちはみんな兄弟なの?」と尋ねたのだとか。
これはよほど印象に残ったようで、後年も公の場でよく語っていたそうです。

シロタ家は現在の乃木坂あたりに住み、新しい生活をはじめました。
ベアテはドイツ系のナショナルスクールに通い、子供らしい柔軟性で日本に馴染んでいきます。

 


お手伝いの日本人女性に影響を受け、後の憲法に……

当初は半年だけ滞在の予定でした。
が、1930年からドイツでヒトラー&ナチスが台頭してきたため、シロタ一家は日本に住み続けることにします。

家では母主催のパーティーがたびたび開かれ、日本にやってくるきっかけになった山田耕筰をはじめとした音楽家たちや、画家、日本の貴族たちなどがよく集まっていたそうで。
家の中では、シロタ家にとって馴染み深いロシア語やドイツ語だけでなく、日本語・英語・フランス語も飛び交っていたとか。
これ以上ない生きた語学教室ですね。

ベアテのピアノは、母・オーギュスティーヌに「音楽の世界で食べていくほどの才能ではない」と思われたようです。
そのため、彼女は娘に家庭教師を付け、英語とフランス語を学ばせました。
一家のこれまでの過程からして、「いつどこに行っても生活していけるように」という狙いでしょうか。

また、ベアテ自身もピアノやダンスの他、日本のお芝居や文化に親しんでいきました。

他に幼少期に大きな影響を受けたのは、屋敷に来ていたお手伝いさんの小柴美代という女性だったといいます。

彼女は静岡県沼津市出身で、父が網元を務めていました。
網元とは、漁業に使う網や船の持ち主で、漁師を雇う人のことです。
農業でいう地主みたいな感じですかね。

第一次産業では女性の地位が低くなりやすい傾向がありますが、美代の周囲もそうだったようで……幼いベアテに、彼女はよく日本女性の地位の低さを語ったそうです。
これが後々、憲法の草案を作る上で、女性の権利を盛り込むキッカケとなりました。
また、美代個人にも非常に感謝しており、後年ニューヨークに呼び寄せたことがあります。

 

戦地のパリを避けて、サンフランシスコへ留学

こうして、日本に好印象を持ちながら成長していったベアテ。

しかし1936年に【二・二六事件】が起きてからは、日本でもナチス・ドイツの影響を感じるようになります。
通っていたドイツ系のナショナルスクールでもヒトラー礼賛の方針に変わっていったため、ベアテはアメリカ系の学校に転校しました。

卒業する頃には、両親の母語であるロシア語、ベアテにとって故郷であるドイツ語、家庭教師から教わったフランス語・英語、学校で習ったラテン語、そして日本語を使いこなすようになっていたといいます。すぎょい。

学校を卒業したベアテは、欧米の大学へ進学を希望します。

第一希望はフランス・パリのソルボンヌ大学でしたが、既に開戦直前だったため、両親が身を案じてアメリカ・サンフランシスコ近郊のミルズ・カレッジへ留学。全寮制の女子大でしたので、親としては安心だったのでしょう。
当時はまだ一般客向けの交通手段は船だったので、ヨーロッパより西海岸のほうが日本から近かった……というのも理由かもしれません。

ここで、ちょっとしたトラブルがありました。
アメリカ留学のためにビザを取らなければならなかったのですが、既にベアテの母国オーストリアはドイツに占領されていたため、書類手続きができなかったのです。

仕方がないので、レオは近所に住んでいた広田弘毅(元総理大臣・元外務大臣)に事情を話し、アメリカ大使にかけあってもらってビザを取ったそうです。
なんのかんのとありつつも、無事にベアテはアメリカに留学することができました。

 


最先端を行くアメリカでも女性は差別されていた

留学前には両親と三週間中国旅行をしていて、しばしの別れを惜しんでいます。

ここで初めてじっくり中国を見て回り、日本との違いを実感したようです。
明治あたりから「同じ極東だけど、実際来てみると日本と中国と朝鮮って違うね」といった旅行記を書いている人は多々いたので、ベアテも同じように感じたのでしょう。

両親はわざわざサンフランシスコまでベアテを送りにやってきた後、すぐに日本へ戻りました。

ベアテは大学で文学を専攻して学業に励みつつ、演劇部やフランス語研究会に所属し、充実した学生生活を送っていたようです。
というのも、ここの学長だったオーレリア・ヘンリー・ラインハートという女性が「これからは身分に関係なく、女性も社会で働いて自立するべきだ」というモットーを掲げていたからです。

今も昔も「アメリカ=先進国」というイメージがありますが、この頃は他国と大差なく、「働いている女性は、生活が苦しいから仕方なくやっているんだ」という考えが主流でした。
ミルズ・カレッジではそこを払拭すべく、卒業後の就職や参政を目指すカリキュラムを組んでいました。

これもまた、ベアテが後々日本国憲法の一部を起草する際の下敷きとなります。

 

母は渡米を主張するも父が日本での授業を優先する

バカンスで日本に帰ったり、翌年には両親がアメリカへ訪ねてきたりと、親子仲は相当良かったようです。

母オーギュスティーヌは「このままアメリカに残ろう」と主張したそうですが、父レオが「日本には私を待っている生徒がいるから」と主張。
レオは普段家族の意見を優先する人だったそうなのですけれども、このときは頑なに譲らなかったとか。レオもまた、ベアテと同じように日本を第二の故郷だと思っていたのかもしれませんね。

既に日米間の緊張が高まっていたため、両親が日本に再入国する許可を得るには時間がかかりました。
彼らはハワイ・ホノルルで足止めされ、その間レオが演奏会を開いて収入を得ていたといいます。これまでの経緯が経緯だけあって、慣れたものです。

ようやく帰国したのが1941年11月下旬というギリギリっぷり。10日後には真珠湾攻撃が行われ、もう一歩遅ければ終戦までハワイにいた可能性がありますね。

戦争勃発により、日米間の連絡や送金はできなくなってしまいました。
仕送りが受けられなくなったベアテは、ラジオ局で日本語→英語の翻訳をしてバイト代を稼ぐようになります。

仕方なく始めた仕事だったでしょうが、デメリットばかりでもありませんでした。

さまざまな日本語を聞く中で文語体や敬語、そして軍事用語を覚えることができたのです。
また、アメリカにいた父の弟子から露日辞典を譲り受け、この3つの言語により強くなりました。

さらに、ベアテの能力が上司の目に留まり、信頼を得て給料も上がります。
とはいえ生活に余裕はなく、この時期は趣味にかける時間やお金を削って、学業とアルバイトに力を注いでいました。

本当は父・レオから「忙しくても、ピアノだけは毎日弾きなさい」といわれていたのですけれども、この状況では仕方がありません。

 


世界初のニュース雑誌・タイム誌ですら男女差別が激しい

しばらくして、ベアテのアルバイト先がアメリカ政府の管轄になりました。
このツテを使って、彼女は両親の無事を知ります。ただし、レオは東京音楽学校を罷免されてしまっていて、生活が苦しいであろうことは予測できました。

そして、ベアテはミルズ・カレッジを最優秀の成績で卒業します。

卒業してしばらくは戦争情報局に転職し、日本人への降伏勧告放送の台本を担当していたそうです。
あまり気分の良い仕事ではないからか、二年程度で退職し、サンフランシスコから母方の叔母が住むニューヨークへ引っ越しました。

ニューヨークでは、タイム誌のリサーチャーになっています。

これは、記事を書くための情報を集めて記者に渡す仕事です。
当時、タイム誌の記者は全て男性、リサーチャーは全員女性で、給料も女性のほうが低い上、何か問題があった場合にはリサーチャーである女性だけが処罰されるという差別バリバリな環境でした。

世界初のニュース雑誌という歴史の古さもあってか、考え方も先進的とはいえなかったようです。
……といっても、ベアテの生年と同じ1923年創刊なんですが。

「自由」と「民主主義」の先進国を謳うアメリカで、こうも堂々と女性を差別しているという現実は、ベアテに大きな屈辱と挫折を味わわせることになります。

が、彼女はめげずに仕事に励みました。

 

警察への出頭を命じられる両親 その直後に原爆が落とされ……

一方その頃、日本にいたベアテの両親は、軽井沢へ強制的に疎開させられていました。

そして1945年7月31日、「一週間後に警察へ出頭するように」と無茶苦茶なことをいわれます。
「出頭」という単語が使われている時点で、蔑視感情と差別意識が隠せていませんね。

ですが、ちょうどその日である8月6日に米軍が広島へ原爆を投下したため、警察もそれどころではなくなり、その後も追求されなかったとか。
それってつまり、元々出頭させる意義がなかったのでは……(´・ω・`)

戦争が終わると、ベアテは同僚のリサーチャーたちの協力を得て、タイム誌の日本特派員に両親の安否を調べてくれるよう頼みます。
幸い、1945年10月下旬には「君の両親の無事を確認したよ」という連絡が届き、彼女は早速、日本に帰れる仕事を探しました。

当時のアメリカには、日本語を話せる白人は60人ほどしかいなかったとされています。
これが彼女にとってとても有利に働きました。なぜなら……。
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