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【ベアテ・シロタ・ゴードン】
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最先端を行くアメリカでも女性は差別されていた
留学前には両親と三週間中国旅行をしていて、しばしの別れを惜しんでいます。
ここで初めてじっくり中国を見て回り、日本との違いを実感したようです。
明治あたりから「同じ極東だけど、実際来てみると日本と中国と朝鮮って違うね」といった旅行記を書いている人は多々いたので、ベアテも同じように感じたのでしょう。
両親はわざわざサンフランシスコまでベアテを送りにやってきた後、すぐに日本へ戻りました。
ベアテは大学で文学を専攻して学業に励みつつ、演劇部やフランス語研究会に所属し、充実した学生生活を送っていたようです。
というのも、ここの学長だったオーレリア・ヘンリー・ラインハートという女性が「これからは身分に関係なく、女性も社会で働いて自立するべきだ」というモットーを掲げていたからです。
今も昔も「アメリカ=先進国」というイメージがありますが、この頃は他国と大差なく、「働いている女性は、生活が苦しいから仕方なくやっているんだ」という考えが主流でした。
ミルズ・カレッジではそこを払拭すべく、卒業後の就職や参政を目指すカリキュラムを組んでいました。
これもまた、ベアテが後々日本国憲法の一部を起草する際の下敷きとなります。
母は渡米を主張するも父が日本での授業を優先する
バカンスで日本に帰ったり、翌年には両親がアメリカへ訪ねてきたりと、親子仲は相当良かったようです。
母のオーギュスティーヌは「このままアメリカに残ろう」と主張したそうですが、父のレオが「日本には私を待っている生徒がいるから」と主張。
レオは普段家族の意見を優先する人だったそうなのですけれども、このときは頑なに譲らなかったとか。彼もまた、ベアテと同じように日本を第二の故郷だと思っていたのかもしれませんね。
既に日米間の緊張が高まっていたため、両親が日本に再入国する許可を得るには時間がかかりました。
彼らはハワイ・ホノルルで足止めされ、その間レオが演奏会を開いて収入を得ていたといいます。これまでの経緯が経緯だけあって、慣れたものです。
ようやく帰国したのが1941年11月下旬というギリギリっぷり。10日後には真珠湾攻撃が行われ、もう一歩遅ければ終戦までハワイにいた可能性がありますね。
戦争勃発により、日米間の連絡や送金はできなくなってしまいました。
仕送りが受けられなくなったベアテは、ラジオ局で日本語→英語の翻訳をしてバイト代を稼ぐようになります。
仕方なく始めた仕事だったでしょうが、デメリットばかりでもありませんでした。
さまざまな日本語を聞く中で文語体や敬語、そして軍事用語を覚えることができたのです。
また、アメリカにいた父の弟子から露日辞典を譲り受け、この3つの言語により強くなりました。
さらに、ベアテの能力が上司の目に留まり、信頼を得て給料も上がります。
とはいえ生活に余裕はなく、この時期は趣味にかける時間やお金を削って、学業とアルバイトに力を注いでいました。
本当は父・レオから「忙しくても、ピアノだけは毎日弾きなさい」といわれていたのですけれども、この状況では仕方がありません。
世界初のニュース雑誌・タイム誌ですら男女差別が激しい
しばらくして、ベアテのアルバイト先がアメリカ政府の管轄になりました。
このツテを使って、彼女は両親の無事を知ります。ただし、レオは東京音楽学校を罷免されてしまっていて、生活が苦しいであろうことは予測できました。
そして、ベアテはミルズ・カレッジを最優秀の成績で卒業します。
卒業してしばらくは戦争情報局に転職し、日本人への降伏勧告放送の台本を担当していたそうです。
あまり気分の良い仕事ではないからか、二年程度で退職すると、サンフランシスコから母方の叔母が住むニューヨークへ引っ越しました。
ニューヨークでは、タイム誌のリサーチャーになっています。
記事を書くための情報を集めて記者に渡す仕事です。
当時、タイム誌の記者は全て男性、リサーチャーは全員女性で、給料は女性のほうが低い上、何か問題があった場合にはリサーチャーである女性だけが処罰されるという差別バリバリな環境でした。
世界初のニュース雑誌という歴史の古さもあってか、考え方も先進的とはいえなかったようです。
といっても、ベアテの生年と同じ1923年創刊なんですが……。
「自由」と「民主主義」の先進国を謳うアメリカで、こうも堂々と女性を差別しているという現実は、ベアテに大きな屈辱と挫折を味わわせることになります。
しかし彼女はめげずに仕事に励みました。
警察への出頭を命じられる両親 その直後に原爆が落とされ……
その頃、日本にいたベアテの両親は、軽井沢へ強制的に疎開させられていました。
そして1945年7月31日、「一週間後に警察へ出頭するように」と無茶苦茶なことをいわれます。
「出頭」という単語が使われている時点で、蔑視感情と差別意識が隠せていませんね。
しかし、ちょうどその日である8月6日に米軍が広島へ原爆を投下したため、警察もそれどころではなくなり、その後も追求されなかったとか。
それってつまり、元々出頭させる意義がなかったのでは……。
戦争が終わると、ベアテは同僚のリサーチャーたちの協力を得て、タイム誌の日本特派員に両親の安否を調べてくれるよう頼みます。
幸い、1945年10月下旬には「君の両親の無事を確認したよ」という連絡が届き、彼女は早速、日本に帰れる仕事を探しました。
当時のアメリカには、日本語を話せる白人は60人ほどしかいなかったとされています。
これが彼女にとって、非常に有利に働きました。
少女時代までに身に着けた5つの言語に加え、大学で学んだスペイン語の6言語を操れるようになっていたことと、これまでの職歴が評価され、GHQの民間人要員として採用されたのです。
帰国したのは、1945年のクリスマスイブのことでした。
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