井上馨(長州藩士時代)/wikipediaより引用

幕末・維新 明治・大正・昭和

井上馨~大臣を歴任しながら「首相になれなかった男」81年の生涯まとめ

実業界から政界復帰

予算案をめぐる紛糾や、数々の疑惑により、井上への風当たりが悪化してゆく中。
明治6年(1873年)、井上は渋沢栄一とともに連袂辞職(れんべいじしょく・共に辞めること)することとなりました。

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実業界に転身した井上は、益田孝らと「先収会社(のちの三井物産)を設立します。
実業家であると同時に、明治8年(1875年)には「大阪会議」にも関わっています。

実は、大阪会議の直前、台湾出兵をめぐって政府内で孤立した木戸孝允が、故郷に帰っておりました。

しかし、このままでは薩摩閥の大久保利通が突出することに……。
そこで長州閥の存在感を示すため、木戸が井上を頼り実現させたののが、大阪会議であるという一面もあったわけです。

大阪会議開催の地レリーフ/photo by 震天動地 wikipediaより引用

政界復帰後の明治9年(1876年)。
井上は、特命全権弁理大臣として、日朝修好条規を締結。このあと、アメリカ次いでヨーロッパへと向かいます。

計画では、3年間留学する予定でした。
しかし、このころ日本は相次ぐ士族反乱により、大変な状況を迎えます。

西南戦争」終結まで、動乱が続いたのです。

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こうした動乱の中、明治10年(1877年)、木戸孝允が死亡します。
更には西郷隆盛、大久保利通も亡くなり、明治政府も変革の時を迎えるのでした。

 

不平等条約改正に挑む

帰国後、木戸を失った長州閥の中で、井上は伊藤と共に存在感を強めます。

明治11年(1878年)参議兼工部卿に就任。
反発もありましたが、黒田清隆や大隈重信が強く推し、実現しました。

井上の抜擢には、こうした賛否両論がつきまいながら、明治12年(1878年)には外務卿に就きます。
このころ熱を帯びてきたのが自由民権運動でした。

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明治14年(1880年)、こうした自由民権運動に対処するため、井上は維新三傑亡きあと政界トップに君臨する伊藤博文、財政の責任者ともいえる大隈重信とともに、「熱海会議」で対応を話し合いました。

残念ながらこの三者は決裂。不協和音は、ほどなく響くようになっていきます。

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ここで井上らは、対立することもある薩摩閥とも手を組み、大隈を政権から追放します(明治十四年の政変)。
「開拓使官有物払下げ事件」に絡んで大隈が情報漏洩したのではないかと非難したのです。

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そして井上は、第一次伊藤内閣で外務大臣に就任。
不平等条約改正に本格的に取り組むこととなります。

幕末から海外志向の強い井上は、強引なまでの欧化政策を断行し、「鹿鳴館時代」と呼ばれる時代を生み出しました。

むろん欧化政策は、ただの趣味ではありません。
明治政府は、治外法権撤廃を中心とする条約改正交渉に尽力していたのです。

このころの日本は立憲政治へと歩み始めていた頃でもあり、明治17年(1884年)には「華族令」を発布し、明治18年(1885年)には内閣制度が発足します。
不平等条約改正のためにも、こうした華やかな雰囲気と政治新体制が必要であったのです。

そして明治19年(1886年)の条約改正会議がスタート。
井上らの尽力もあり、日本がいつになれば国際的な司法権を回復できるか、確定できたと言えます。

しかし、この条約改正案が、国民のみならず政府内部からも反発を招きます。
井上は情報開示をあまりせず、自分で抱え込んで条約改正に当たってきたことも、一層疑惑の目を深めてしまいました。

こうした厳しい批判と冷たい目線を受け、井上は明治20年(1887年)、交渉中止の上、辞職に追い込まれました。

 

各内閣で大臣を歴任する実力者

明治21年(1888年)から明治22年(1889年)にかけては、黒田清隆内閣における農商務大臣に就任。
長州閥の伊藤内閣だけではなく、薩摩閥の黒田内閣でも、大臣に就きます。

この内閣は、伊藤の辞任を受けて、黒田がスライド式に首相となったものでした。伊藤という長州閥の不在を補うかのように、井上が大臣に就いたわけです。

さらに井上は、前回の条約改正失敗の失地回復を狙い、「自治党」結成を目指します。
が、これに失敗。伊藤博文もまた新党結成を目指して挫折しました。

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明治25年(1892年)年から明治27年(1894年)までは、第二次伊藤内閣における内務大臣に就任します。
伊藤が負傷した明治25年11月から翌年2月までは、首相臨時代理もつとめております。

日清戦争時は朝鮮駐在の特命全権公使に就任。
還暦手前で閣僚経験もあり、幕末から活躍していた井上が、海外にまで渡るという行動力は、驚異的なものでした。

明治31年(1898年)の第三次伊藤内閣では、大蔵大臣に就任。
これが最後の入閣となるのでした。

第三次伊藤内閣時代、井上と伊藤は憲政党に苦しめられました。

この内閣の元勲級指導者は、伊藤を除けば井上と西郷従道のみ。
自由党首・板垣退助、進歩党首・大隈重信らは、閣外から敵対する動きを見せます。

地租増徴案に反対する自由・進歩両党は、憲政党を結成。
しかも、衆議院の議席の大部分を占めてしまいました。

この動きに対抗するため伊藤と井上は結党を目指したものの、思うように協力を得られず、再度挫折。
井上は、このあと第四次伊藤内閣に誘われても断るのでした。

 

首相になれなかった元勲

明治34年(1891年)。
第四次伊藤内閣のあと、明治天皇より「井上が組閣すべし」との大命が降りました。

66歳の井上は組閣すべく奮闘します。
しかし、大臣就任を引き受ける者が集まらず、断念に至ります。

それを機に井上は、政界の一線から引きました。
以降は、幕末を知る元老として、睨みを利かせる存在になったのです。

侯爵であり、ただの元老ではない井上。
三井や藤田組といった大財閥の顧問として、経済界にも君臨しました。

日本の資本主義に貢献したワケで、同時にそのことが金にまつわる黒いイメージにつながる面もありました。

そして大正4年(1915年)。
興津にある別邸で病没。81歳でした。

幕末の動乱を知る明治期政治家の中でも、歳年長の部類に入る長寿です。

これだけの実力があり、その機会がありながらも、首相になれなかった人物。
それが井上馨です。

悪いイメージは常につきまといましたが、閣僚として優秀であり、バイタリティに溢れていたことは、間違いないでしょう。

 

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文:小檜山青

【参考文献】
『首相になれなかった男たち: 井上馨・床次竹二郎・河野一郎』(→amazon
『明治維新とは何だったのか: 薩長抗争史から「史実」を読み直す』(→amazon
国史大辞典

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