明治・大正・昭和

日本人女性初の五輪メダリスト・人見絹枝~悲劇の最期を迎えるまで

大河ドラマ『いだてん』にも登場した人見絹枝(ひとみきぬえ)

1907年生まれの彼女は日本人離れした体格に恵まれ、100m走や走り幅跳びなどで世界記録を樹立、アムステルダム五輪では日本人女性初のメダリストにもなりました。

いったい人見絹枝とはどんな女性だったのか?

昭和6年(1931年)8月2日に、24才で惜しまれながら早逝してしまった――悲運の軌跡を辿ってみましょう。

 


各種競技で記録を打ち立てるも……

人見は1907年、岡山県で生まれました。

最初はテニスをやっていて、16歳のときに陸上競技を開始。

走り高跳びの日本最高記録を出したことから、本格的に陸上の世界に入っていきます。

17歳で二階堂体操塾(日本女子体育大学の前身)に入学し、塾長の二階堂トクヨから直に指導を受けるようになりました。

三段跳び・やり投げ・体操・砲丸投げなどさまざまな種目で記録を打ち立て、その多くが現在は非公認になってしまっています。

まぁ、エラい人が偏見混じりに決める「公認」などなくても、彼女の偉業は消えないですけどね。

19歳の春に大阪毎日新聞社へ入社し、運動課に配属されてからは、日本記録・世界記録を次々に打ち立てていきました。

同年8月には、スウェーデンのヨーテボリという町で行われた第二回国際女子競技大会に出場。

走り幅跳びを世界新記録で優勝し、立ち幅跳びでも優勝という輝かしい記録を残しました。

 


五輪を諦めた女子選手もいた

海外遠征で彼女は大きな発見をすることになりました。

外国では女子の陸上選手が既に増えつつあること。

専属のコーチがついてトレーニング計画がしっかり作られていること。

日本と比べて整った環境に衝撃を受けたのです。

当時の日本はまだ女子の運動、特に陸上への理解が進んでいませんでした。

後年、人見自身も「陸上を始めた頃は、周りから冷たい視線を浴びたものです」と語っています。

「日本女性は人前で太ももを晒すべきではない」だの、「日本女性の個性を破壊するようなことをするな」だの、数々の手紙が、人見の実家に送りつけられたこともあったとか。

今で言えば炎上みたいなものですね。当人に悪いことは全くないので、単なる誹謗中傷ですけど。

人見はこうした一部のアレな人に対し、

「私のことはいくら罵っても構わないが、後続の選手や女子陸上協会には指一本触れさせない!」

と書いたことがあります。毅然とした対応が素晴らしい。

とはいえ、世間の目が厳しかった時代です。

いくら人見が説得しても、バッシングに耐えられず、オリンピック出場を見送った女性選手もいました。本当に嘆かわしい……。

 


100mは決勝を逃すも800mで銀メダル

人見本人は、1928年のアムステルダルオリンピックで

・100m
・800m
・円盤投げ
・走り高跳び

に出場しました。

日本の選手団で、女子は人見ただ一人。

喜びや晴れがましさと同時に、相当のプレッシャーも感じていたことでしょう。

本命は100mでしたが、準決勝で4着だったため、惜しくも決勝進出を逃してしまいます。

しかし、3日後の800m決勝では2着になり、日本人女性初のオリンピックメダリストという偉業を成し遂げました。

リナ・ラトケ(右)と競り合う人見絹枝(左)/wikipediaより引用

実は、人見は800mの予選まで、この距離を走ったことがなかったのだそうです。

100mで勝てなかった分を取り返し、晴れ晴れとした気持ちで帰るために、無理を言って出場を願い出た……という経緯がありました。

800mは中距離にあたる長さですが、瞬発力がものをいう短距離走、スタミナ勝負のマラソンとはまた違う工夫が必要になる種目です。

その難しさ・苦しさがよく伝わってきます。

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