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日本人女性初の五輪メダリスト・人見絹枝~24才で悲劇の最期を迎えるまで

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五輪からわずか3年後 肺の病気で

アムステルダルオリンピックの後、人見は競技から一時期離れたこともありました。

しかし、世間からの注目が集まった分、講演会など陸上以外の仕事も増え、費用もかさむようになっていきます。

有名税というかなんというか……。講演会は、依頼をした側が費用を出してもいいはずなんですけどね。

某選手が「取材料出さないところの取材は受けません」と言ってブーイングを受けていましたが、拘束時間が発生するのだから、当たり前といえば当たり前の話。

スケジュール的にも過密だった上、少しでも成績が悪いと世論が一気に冷たくなるため、人見を始めとした選手たちは心身的にかなり辛かったようです。

そんな中でも、人見は女子陸上の第一人者として、新聞社の仕事や募金のお礼なども積極的に行いました。

サンデー毎日で表紙を飾った人見絹枝/wikipediaより引用

そんな無理がたたったのでしょうか。

アムステルダルオリンピックの3年後に肋膜炎から肺炎・結核を併発し、24歳という若さで亡くなってしまっています。

さぞかし無念だったに違いありません。

彼女は死を前にして、こんな言葉を残しております。

「わたしが死んだら世間の人は何と思うだろう。人見は運動をやり過ぎて死んだ、女の子にスポーツをやらせるのは危険だといわないだろうか」

死を前にしても、自分のことより女子スポーツのことを懸念する、重く苦しい心情――。

それはムダではありませんでした。

後輩たちへとシッカリ引き継がれていったのです。

高田高等女学校の運動部員達と共に撮影された人見絹枝/wikipediaより引用

 


岡山県や有森裕子に受け継がれ

バルセロナオリンピックで久々の日本人陸上女子メダリストとなった有森裕子さんは、同じ岡山市出身、かつ祖母が人見の女学校の後輩だったという縁があり、尊敬している人のひとりとして人見の名を挙げています。

また、有森さんがバルセロナオリンピックのマラソン銀メダルを獲得したのは、人見が800mで銀メダルを獲ったのと同じ、8月2日(日本時間)のことでした。胸アツな話です。

人見の残したものがもう一つあります。

2000年に、人見の獲得した銀メダルが寝具の中から見つかったそうなのです。

戦時中の金属供出令で消えてしまったと思われていたらしいのですが、こうした偏見の中で勝ち取ったものだからこそ、家族が大切に保管しておいたのでしょう。

地元・岡山の人々も、彼女のことを忘れませんでした。

クラレの岡山工場と岡山市中央部をつないでいる岡山県道40号岡山港線が人絹道路(じんけんどうろ)と呼ばれているそうです。

人絹とは化学繊維のレーヨンのことで、この工場で生産していることから来たと思われます。

そして、たまたま人見の名前に「人」「絹」の字が含まれていること、人見の出身校でもある岡山市立福浜小学校(当時は福浜村立福浜尋常高等小学校)がこの道路沿いにあることから、人見の業績を顕彰するための道路ともいわれるようになったのだそうです。

今ではどの種目でも女子選手の活躍が珍しくなくなりましたが、人見のような創成期の人々の努力や成果も、忘れずにいたいものですね。

KANKOスタジアムの人見絹枝像/wikipediaより引用


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長月 七紀・記

【参考】
日本人名大辞典
日本大百科全書
人見絹枝/wikipedia

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