松江豊寿/wikipediaより引用

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松江豊寿の会津魂が「坂東俘虜収容所」で感動の第九を鳴り響かせる

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松江豊寿板東俘虜収容所
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今も続くバンドーの絆

坂東の収容所は第一次大戦終結と共に使われなくなりました。

このため、松江がドイツ人捕虜たちと過ごした期間は3年弱といったところなのですが、ここを起点とした交流は今も続いています。

捕虜たちが帰国直前に「ここにいる間に亡くなった者の慰霊碑を作りたい」と言っていたことが直接のきっかけになったようです。

彼らがこの地を去った後、この慰霊碑は一時期忘れられてしまいましたが、第二次大戦後周辺住民によって発見され、手入れがされるようになりました。

そして報道によりこのことを知ったドイツ大使や領事が坂東を訪問し、さらに広く知られていくことになります。

また、元捕虜たちは帰国する者と日本に残る者に分かれましたが、どちらも板東のことを忘れはしませんでした。

帰国組は母国で「バンドーの会」という団体を作って元捕虜同士の交流を続けており、上記の経緯からか戦後「今の様子を知りたい」という手紙が板東に届きます。

こうしてやり取りが始まり、板東でも「ドイツ人を偲ぶ会」が作られ、収容所跡地の様子を収めたフィルム(ビデオ)がドイツに送られました。

もちろん慰霊碑の様子も写っており、一時忘れられていたとはいえきちんと守られていたことを知った元捕虜たちは、感謝の念を込めて大麻町(収容所付近の新しい町名)へお金を送り、町はそれを使って慰霊祭を執り行いました。

また、その後元捕虜の娘さんが来訪したり、ドイツ・リューネブルク市と鳴門市との交流がされるようになっています。

一年おきに親善大使が行き来するそうで、街同士の交流としては結構大掛かりですよね。

この逸話がお好きな方、ドイツに行きたい方は鳴門市の職員になるといいかもしれません。

動機が不純でもちゃんと仕事やれば大丈夫でしょう。多分。

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長月 七紀・記

【参考】
日本人名大辞典
国際留学生協会
松江豊寿/wikipedia

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