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【明治天皇の崩御】
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命を助けられた(?)乃木は一日に三回も参内
これが知らされて以降、陸軍大将・乃木希典は一日のうちに三回も参内し、病状を伺っていたといいます。
乃木はかつて、日露戦争での失敗に関する責任感から、死をもって将兵に詫びたいと考えていたところを、明治天皇に「今はその時ではない。どうしてもというなら、わしが死んだ後にせよ」と止められたことがありました。
それでなくても、乃木は大変忠誠心の厚い人でしたから、居ても立ってもいられなかったのでしょう。
日に三回、というのは侍医の診察が一日三回だったからだと思われます。
診察の直後に行って、詳しい病状を聞いていたのだとか。
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乃木希典(元陸軍大将)妻とともに明治天皇に殉じた軍人の生き様とは
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運の悪いことに、当時の皇太子(大正天皇)も水ぼうそうで寝込んでいたため、24日までお見舞いに来ることができませんでした。
皇太子の近臣が「水ぼうそうは伝染病のため、万が一を考え、ご体調が万全になってからお見舞いに」と言っていたようです。
代わって皇太子妃(貞明皇后)が20日から昭憲皇太后とともに看病にあたっていました。
さらに、大正天皇の皇子たち三人(後の昭和天皇・秩父宮・高松宮)が葉山での避暑を取りやめ、22日に東京へ戻ったその足で明治宮殿へお見舞いに行っています。
孫の皇子たちはその後も度々お見舞いに訪れ、ときには庭で遊び、看病疲れの昭憲皇太后を慰めていたそうです。
明治天皇も意識が戻っていれば、いくらかは聞こえていたかもしれません。
漱石も苦言を呈すほどの過剰な自粛が……
22日には、明治天皇が目を覚ましたとき「手鏡」をしたという記録もあります。
普通の手鏡ではなく、手のひらを鏡のように見つめるという仕草のことです。俗に「寿命が近づいた人間が自然にやる」といわれていますね。
この頃になると、明治天皇の病状は一般にも報道されていました。
皇居(明治宮殿)の前で明治天皇の回復を祈る一般人が数百~数千人いたといいます。
が、あまりに新聞が詳細な報道をし、世間の行事やいわゆる”歌舞音曲”関係が過剰な自粛をするのを見て、夏目漱石など当時の文人は「やり過ぎではないか」と日記に書いていました。
少々長いので、漱石の日記をかいつまんで意訳しますと、
「行事のどこがお上の健康を損じるというのか。既に亡くなったのなら自粛もやむを得ないが、過剰な自粛は経済のためにならず、また民の怨嗟が政府に集まる元になる」
「新聞は陛下の徳を報じるどころか、お名を傷つけるようなことばかり書いている」
「行事や営業ができなくなって困っている民衆も多いだろうに、当局の没常識には驚くばかりだ」
といった感じです。まさにその通りとしか。
践祚の儀は亡くなった当日に行わなければならず
こうして方々で違った意味の緊張が高まる中、28日の明治天皇にはけいれんがみられ、カンフル剤や生理食塩水などが注射されています。
同じく「天子の体を傷つけていいのか」という躊躇があったようですが、やはり昭憲皇太后の許可で行われました。
そして29日にはいよいよという病態になり、午後10時半頃に皇族が病室に集められています。明治天皇が何か低くつぶやき、昭憲皇太后が返事をしたものの、その後は何も言わずに亡くなったとか。
公的には、明治天皇の崩御日時は”7月30日午前0時43分”と発表されました。
これにも大きく分けて二つの理由があります。
一つは、明治天皇が息を吹き返す可能性を考えてのことです。
明治天皇存命中に、新帝践祚の儀を準備する訳にはいきません。ですから、しばらく様子を見る必要がありました。
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明治天皇の功績&エピソードまとめ! 現代皇室の礎を築いたお人柄とは
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もう一つは、践祚の儀の準備の関係です。
空位の時間が生まれることを防ぐため、践祚の儀は先帝が亡くなった当日に行わなければなりませんでした。
しかし、明治天皇の崩御が午後10時半頃では、日が変わるまでに1時間+αしかありません。
そのため、崩御の時間のほうをずらし、空白の時間ができるだけ短くなるように発表したのだそうです。
幕末・維新を経て、そして時代は大正へ
遺体は7月31日に納棺され、8月13日に殯宮(ひんきゅう・もがりのみや)に移されて皇族や諸役人の拝礼が行われました。
そして9月13日午後8時に青山練兵場(現在の明治神宮外苑)へ向けて出棺。陸軍・海軍の弔砲の後、東京中の寺院から鐘が鳴らされたといいます。
その後、一般の葬儀にあたる「大喪の儀」が執り行われました。
大喪の儀の後、棺は遺言に従って京都南部の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬されています。
明治天皇は近畿圏に葬られた最後の天皇です。
昭憲皇太后は明治天皇が案じた「めちゃめちゃ」になることはなく、気丈に看病や新帝即位、大喪の儀へのお見送りをこなしました。
大正天皇も健康や素質を危ぶまれていましたが、明治天皇の晩年には毎週一度親子で語らう日があったため、日常の心得やいざというときの覚悟を決めていたと思われます。
残念ながら、健康のほうが追いつきませんでしたが……。
こうして明治時代が終わり、日本は大正時代へと移り変わっていきました。
なお、明治天皇の生涯につきましては以下の記事にまとめさせていただきましたので、よろしければ併せてご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
『崩御と即位―天皇の家族史 (新潮文庫)』(→amazon)
『明治宮殿のさんざめき (文春文庫)』(→amazon)
明治天皇/Wikipedia