三毛別羆事件復元地

明治・大正・昭和

人の味を覚えたヒグマの怖さ「三毛別羆事件」冬の北海道で死者7名重傷者3名の惨事

大正四年(1915年)12月9日は、三毛別事件という国内最大の獣害事件が始まった日です。

この事件が怖いのはヒグマが文字通り「人の肉の味を覚えた」ことでした。

最近は北海道だけでなく、本州でもツキノワグマによる被害が多発しており、とても他人事とは思えない事件になっています。

にも関わらず、殺処分をするたびに地元役所へ「殺すな!」という抗議電話が入っているようで……。

この三毛別羆事件を知ったら、とてもそんなことは言えなくなるでしょう。

できるだけグロさを抑え、時系列に沿って当時を振り返ってみたいと思います。

三毛別羆事件復元地

 


巨体過ぎて冬眠できない「穴持たず」

事件の舞台は、北海道苫前郡苫前村(現・苫前町古丹別)というところです。

札幌と稚内のだいたい中間地点にあたり、現在は「三毛別ヒグマ事件復元地」として羆と家屋の模型が設置されています。

もちろん当時は行政機関・警察機能も整っておらず、住民の家もごくごく簡素なものでした。

これが、この事件を大きな悲劇にした一因でもあります。

事件発生前、11月頃から尋常でない大きさのヒグマがうろついていることは知られていたそうです。

マタギが追いかけたこともあったらしいのですが、仕留めることはできず「巨体過ぎて、冬眠する穴を見つけられなかったのではないか」という推測が生まれました。

そういうヒグマのことを「穴持たず」といいます。

冬を乗り切るため・食料を探すために気性が荒くなるということも知られ、この時点では対策の仕様がありませんでした。

そして12月9日から、この巨大ヒグマが家々を襲い始めます。

冗談抜きでR18-Gなので、できるだけ端的にダイジェストでお送りしますね。

 


ヒグマは女子供ばかりの家を襲った

12月9日

旦那さんが留守にしていたとある家で、たまたまその家に預けられていた少年がまず犠牲に。

追い払おうとした奥さんも被害に遭う。

その日のうちに村中へこのことが知らされるが、日が落ちるのが早い季節のため、他の住民は500mほど離れた別の家に集まるくらいしかできなかった。

12月10日

30人ほどの男性がヒグマ討伐に向かうが、持っていた鉄砲がうまく撃てず、仕留めるには至らなかった。

前日被害に遭った奥さんの遺体が雪の下から見つかる。

これはヒグマが遺体を保存食にしようとしたためだった。

夜、犠牲者二人の通夜が営まれ、通夜後の食事の席に同じヒグマが現れる。

三毛別羆事件復元地

このときは皆梁の上などに逃げて助かった。

しかし、ヒグマは女子供ばかりの別の家を襲った。

ここで子供三人、妊婦一人と胎児が一人亡くなり、三人重傷者が出ている。

頭をかじられながらも逃げたある女性によって、村の男性たちが呼ばれたが、助けることはできなかった。

それでいて、失神して倒れていたまた別の女性は無事だった。

ここまでで死者7名・重傷者3名(重傷者のうち1名は後日死亡)。

 


包丁一本でヒグマを倒した猟師が到着

12月11日

住民がもう少し離れた場所に避難。

区長や駐在所の警察官などと相談して、行政を頼ることになる。

12月12日

北海道庁に連絡が届き、警察官を主体とした討伐隊が組まれ、医師も現地に向かう。

ヒグマの「獲物を取り戻そうとする」習性を利用し、まだ通夜を済ませていなかった犠牲者の遺体周辺で待ち伏せることになった。

当時の開拓村の家(再現)/ photo by Babi Hijau wikipediaより引用

件のヒグマは予想通り現れたが、武装した人が多いことを悟ってか、襲ってこなかった。

12月13日

陸軍からも応援が到着。

ヒグマは無人の村の食料を漁り、女性の寝具などを荒らしていた。

この日からヒグマは昼間から村に現れるようになり、焦れてきていたらしい。

一度討伐隊が撃ちかけたものの、仕留めることはできなかった。

12月14日

かつて包丁一本でヒグマを倒したという凄腕の猟師が到着。

軍帽やロシア製ライフルを持っていたそうなので、日露戦争時には従軍していたと思われる。

討伐隊が再びやってくる前に、この猟師がヒグマの背後から心臓と頭を撃ち抜いた。

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