アイヌの歴史

1904年に撮影されたアイヌの人々/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

アイヌの歴史を振り返る~漫画ゴールデンカムイで注目される北の大地

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クナシリ・メナシの戦い

18世紀になると、ロシアの南下が始まります。

ロシアの支配下に置かれたアイヌは、厳しい重税が課されるようになり、暮らしは一層苦しくなりました。

北海道東部の生活を苦しめたのは、飛騨屋という商人でした。

松前藩は飛騨屋に莫大な借金をするものの、返す気はありません。

代わりに北海道北部のアイヌとの交易権を与えることにしたのです。

松前藩の借金を取り戻すべく、飛騨屋によるクナシリ・メナシのアイヌ搾取が始まりました。

漁場で働かせ、薄給で酷使。アイヌ女性に暴行したり妾にしたり、ときには惨殺することすらありました。

この搾取に怒り、1789年(寛政元年)、クナシリ・メナシの若いアイヌが蜂起。

飛騨屋関係者を殺害する事件が起こりました。

若者たちはなだめられ、この蜂起は終息します。

飛騨屋は態度が悪いとして、松前藩から交易権を没収されました。

元を辿れば、悪いのは松前藩なのですが、こちらはお咎めなしでした。

また、このころとなると幕府は蝦夷地警護の必要性を考えるようになりました。

蝦夷地に人を住まわせ、ロシアに対抗する必要性を感じるようになったのです。

和人による蝦夷地探険が盛んになるのも、このころからです。

最上徳内
未開の時代に8度も蝦夷地(北海道)を探検した最上徳内って一体何者?

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航海技術が発達し、世界が狭くなるような状況の中。

アイヌにも、その影響は厳しいカタチで及ぶようになるのです。

 

日本とロシアの狭間で

1853年(嘉永6年)の黒船来航以来、幕府は開国を迫られるようになりました。

アメリカに後れを取るなと、他の国も日本に来航します。

もちろんロシアもこの中に含まれています。

そして、それまでハッキリとは意識されていなかったことが、幕府の中で既成事実とされるようにされます。

アイヌが暮らす土地=アイヌモシリ(リは小文字)は、幕府の支配下にあるということです。

それはアイヌの人々にとって、まったく知らぬことでした。

幕藩体制が終わり明治8年(1875年)、明治新政府はロシアと「樺太千島交換条約」を結びます。

アイヌの人々が知らぬうちに、彼らの住むアイヌモシリが近代国家の枠に入れられていったのです。

サハリンに暮らすアイヌたちは、長いこと和人と結びつきが深い暮らしをしていたのに、突如、ロシア人とされてしまいました。

拒む者たちは、北海道へ移住させられました。

「せめて、故郷のサハリンが見える宗谷に暮らしたい」

彼らはそう願いますが、開拓使長官の黒田清隆は、石狩・対雁でなければ認めないと突っぱねます。

黒田清隆/wikipediaより引用

説得を任された松本十郎判官(現在の副知事)は、親しくしていたアイヌの心を裏切る辛さを記して、辞表を叩きつけました。

雁別に移住したサハリンアイヌに、さらなる悲劇が襲いかかります。

疱瘡(天然痘)で、移住した800名余りのうち、350名以上が亡くなったのです。

疱瘡は、日本でも幕末に導入された種痘により、予防が可能となっていました。

しかし、それはあくまで限られた人々のこと。

アイヌの人々は抵抗力がなく、多くの人々が犠牲になりました。

かつてアメリカ大陸の先住民は、移住者の持ち込んだ伝染病で激減しましたが、まったく同じ構造の悲劇が、アイヌの人々にも襲いかかったのです。

コロンブス/Wikipediaより引用

日本領となった北千島のアイヌも、多いに戸惑いました。

和人と関わりのなかった彼らが、突如日本国民にされたのです。しかも、彼らは強制的に色丹島に移住させられたのです。

色丹には、北千島にいたラッコや、トド、オットセイといった海獣がほとんどいませんでした。

移住を強制されたアイヌは、獲物が捕れないと、悲痛な嘆きを残したのです。

 

消えゆく文化

廃藩置県により、アイヌの人々を苦しめていた松前藩の場所請負制は終わりました。

代わって「開拓使」が置かれます。

この「開拓」という言葉も、一方的であります。

和人からすれば未開の地を切り拓くということになりますが、アイヌの人々にしてみれば、彼らの暮らして来た土地は豊かで自然の恵みにあふれ、切り拓くものではありません。

明治4年から10年の期限で置かれた「開拓使」。

移住してきた和人たちは、戊辰戦争で敗れた、会津藩はじめ奥羽列藩同盟の武士たちが中心です。

その中で、アイヌの風習を禁止する法律ができます。

当時の明治政府は、文明開化に躍起。

海外から見られて恥ずかしいと思われそうな風習は、片っ端から廃止するようにしたのです。

町の中から褌一丁で歩くような人々は消え、髷、お歯黒といったものが禁止されるのもこの頃です。

その流れが、アイヌにも及びました。

・農耕の奨励
・家焼きの風習廃止
・女性の口の周りの入れ墨禁止
・男性の耳環禁止
・日本語の推奨

入れ墨を入れたアイヌの女性/wikipediaより引用

耳環をつけたアイヌの男性(左)/wikipediaより引用

アイヌの人々は、入れ墨をしなければ神が怒る、これでは結婚できないと嘆きました。

いくら和人が善意であると主張しても、そこには深い悲しみと困惑が残されたのです。

農耕奨励と表裏一体であったのが、土地の取り上げ、シカやサケを対象とした狩猟禁止令です。

1875年(明治8年)、シカ狩猟が禁止されました。

この禁止令には抜け穴があります。

600名までならば免許を得て狩猟ができたのです。しかし、どう考えても和人優先とされるに決まっています。

そして、アイヌの人々の智恵である毒矢も禁止されました。

1879年(明治12年)、日高地方でサケ漁が禁止。

1883年(明治16年)、十勝地方でサケ漁が禁止。

サケなんか取らないで農耕でもしろ、ということです。

しかし、それまでずっと生涯サケをとり続け、それで生きてきた人々にとって、あまりに過酷なことではないでしょうか。

漁禁止の影響で、餓死者すら出たとされます。

和人の町が出来てゆく過程で、アイヌが強制的に移住させられる事例も増えてきます。

同化という言葉で、アイヌの人々の文化や生活が失われてゆきました。

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