貞明皇后(大正天皇の皇后)

1912年(大正元年)撮影に撮影された姿(左)と結婚の儀に臨む姿(右)の貞明皇后/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

貞明皇后(大正天皇の皇后)と皇室を支えた近代皇后たちの功績とは

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貞明皇后
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まずは、明治天皇の奥様である昭憲皇太后です。

以前明治天皇の記事で「天狗さん」と呼ばれていたことをお話しましたが、当時の人にしては珍しいほど鼻筋が通っておられたためにつけられたあだ名でした。

昭憲皇太后/Wikipediaより引用

和装・洋装を完璧に着こなすばかりでなく、「これから女性がどうあるべきか」という模範を示しています。

明治政府の中には「江戸時代大奥がかなりの権力を持っていたように、皇后とその側近である女性達や実家が政治に口を出してくるのではないか」と考える人もいたからです。

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しかし昭憲皇太后は直接政治に関わることを避け、皇族・一般人含めた女子教育制度を始めたり、日本赤十字社の設立など、公共の福祉を主導することに力を注いでいます。

日本赤十字社の名誉総裁に歴代の皇后が就くことになっているのは、昭憲皇太后が設立に積極的だったからです。

現在皇族の方々が各種福祉団体や教育団体の名誉職についているのも、この流れによるものでしょう。

 

結婚については本人の意向を重視した香淳皇后

次は昭和天皇の奥様・香淳皇后についてです。

上皇陛下のお母上でもありますね。

昭和年間自体が激動の時代ですから、明治時代に勝るとも劣らないご苦労があったことでしょう。

戦中・戦後は常に昭和天皇の意向に沿って行動されていますし、戦後にお子様である今上陛下や親王・内親王方の結婚については、本人の意向を重視するためお見合いやデートを勧めていました。

一般人からすると何でもないことのようですが、やはりお立場がお立場な方々ですので、これはかなり大きな改革といえるでしょう。

ただ、さすがに「テニスコートの出会い」は想定の範囲外だったようで、ひと悶着どころじゃないアレコレがあったようですけども。香淳皇后は皇族の出身だったので仕方ない話ではあります。

嫁姑関係について、香淳皇后はどちらの立場のときもお悩みだったようですね。

香淳皇后/wikipediaより引用

 

皇室に一家団欒を導入した上皇后

さて、現在の上皇后美智子様についてはもう言うまでもないというか、あの穏やかな笑顔だけで説明がつく気もしますが、ほんの少しだけ触れておきましょう。

上皇后がこれまで行ってこられたことの中で最も”改革”というべきことは、御自ら料理やお弁当作りをされたことです。

これまた一般人からすると「どこがすごいの?」という話かもしれませんが、皇族の方々というのは幼少期から肉親の手料理ではなく厨房で作られるもので育っていますので、「手料理」というものをほとんど口にされたことがなかったのです。

上皇明仁がまだ幼かったころ、香淳皇后が好物の豆腐料理を作ったものの、実際に召し上がれる機会はなかったといわれているほどです。

どこの国でも身分の高い方は大変だ、という話をたびたびしてきましたが、親子で食卓を囲めないというのは皆さんお寂しかったでしょうね……。

※皇室の厨房担当・大膳課をディスっているわけではないので悪しからずご了承ください

これによって皇室にも「一家団欒」という概念が根付き始め、それは三人のお子様方や各宮家にも波及したと見ていいでしょう。

明治以前と以降で日本は大きく変わり、このように皇室の内側も同じくらい変化していたんですね。

”内助の功”とはちょっと違うかもしれませんけども、こうした視点から歴史を見てみるのもなかなか面白いものです。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
黒岩比佐子『明治のお嬢さま (角川選書)』(→amazon
貞明皇后/wikipedia

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