田中正造

田中正造/国立国会図書館蔵

明治・大正・昭和

田中正造と足尾銅山鉱毒事件って無事に解決した?閉山は昭和48年

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田中正造と足尾銅山鉱毒事件
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国「調査します!」住民「いつ?」国「調査してます!キリ」

まず田中正造は、現地で被害状況を確かめ、できたばかりの衆議院で鉱毒事件について話題にしました。

田中正造/国立国会図書館蔵

しかし政府はしらんぷり。

待っていても一向に対策が取られないため、農家の人々は直接東京まで行って訴えました。

担当大臣に会っても一向に良くならず(調査委員会は作ってくれたようですが)何度も東京へ出かけていくことになります。

鉄道は既にありましたが、田んぼがダメになってしまっては収入もなく、運賃が高くてとても使えません。

現代であればデモ行進のようなものでしょうか。

政府はなかなか具体的な対策をしてくれませんでした。

その間にも鉱毒の被害はどんどん広がります。

渡良瀬川が利根川・江戸川に繋がっているからです。

現在の千葉県市川市行徳付近や、茨城県の霞ヶ浦あたりまで大なり小なり鉱毒の被害を受けたといいますから、さすがの政府もシカトしきれなくなりました。

それでも調査委員会が置かれただけで、実質的な対策は「民間企業」に任せたまま。

正造は「このままじゃ国が滅びますよ! 作物も飲み水もダメになってるのにこれ以上放置する気ですか!」と繰り返し議会で発言しますが、当時の総理大臣・山県有朋の返事は「お前何言ってんのかイミフだわ」とまぁ、こんな調子でした。

※以下は山県有朋の生涯まとめ記事となります

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もはや、これ以外に道無し――。

田中正造は自らの命を賭け、ついに最後の行動を決意します。

 

死刑を覚悟でついに明治天皇へ直訴!

明治34年(1901年)12月。

正造は、最終手段に訴えることにしました。

明治天皇への直訴です。

議会で取り合ってもらえないなら、その上にいる天皇に訴えるというわけですね。

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しかし相手が相手ですから、道端で捕まえて立ち話なんて到底できません。

そこで正造は、鉱毒事件の経緯と被害地域の人々が苦しんでいることを手紙にまとめ、直訴状としました。

当時、天皇への直訴は重罪中の重罪です。

正造も政治家ですから、そこはきちんとわかっています。

即座に死刑になっても構わない、陛下へ伝えることさえできれば――そう覚悟を決め、妻に離縁状を残し、紋付袴で正装して天皇の馬車へと駆け寄ったのです。

「陛下!これをご覧ください!!」

しかし、馬車の中にいる明治天皇に直訴状が渡ることはなく、警官達に取り押さえられてしまったのでした……。

正造が死刑になることはありませんでした。

警察や政府としては、ここで有罪にしてしまうと、明治天皇に鉱毒事件がバレてしまうかもしれないと考えたのでしょう。

そうなれば責任を問われるのは自分たち。

実際の理由ははっきりしませんが、とにかく正造は死刑にならずにすみました。

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