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【田中正造と足尾銅山鉱毒事件】
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直訴が広く報道され 世論は正造に傾いた
直訴そのものは失敗しました。
代わりに直訴状の中身と「直訴をした」という事実が広く報道されます。
ここでやっと鉱毒事件が世の明るみに出ました。
「政府は何してんだ!」
「早く対策しろ!」
世論に押し切られ、再調査が実施。
その結果と対策は……
「渡良瀬川の途中に池を作ってさ、そこで毒を沈めちゃえばいいよね!洪水防止にもなるし!」
というお粗末なものでした。
しかも「場所を確保したいから、一つ村を潰すけどいいよね!」なんて横暴すぎる条件つきです。
当然、村民達は大反対しますが、村の土地は買収され、強制退去させられてしまいました。
この買収の際にも正造は村民の側に立ち、精力的に演説などを行っていましたが、先に体のほうが限界を迎えてしまいます。
古馴染みの人々へあいさつまわりに行く旅の途中、栃木県佐野市で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。
その後も足尾銅山は稼動し続け、最終的に閉山したのはなんと昭和48年(1973年)。
正造の死から60年後のことでした。
足尾事件は終わらない?
閉山ですべてが解決したわけではありません。
精錬所は1980年代まで動いていましたし、関東大震災の際には渡良瀬川の下流から基準値を超える鉛が検出されております。
どう考えても足尾銅山の影響ですよね。
堤防やダムが作られたため、洪水が起きることはなくなりましたが、鉱毒事件は今も完全に解決したわけではないようです。
途中に戦争があり、科学的調査もウヤムヤなまま閉山に至ってしまったのですね。
いくら国の近代化のためったって、あんまりな話でしょう。
この事件の背景には、有名政治家の子息がこの大手企業に関係していたため、抜本的な解決がされなかったという、信じがたい歴史秘話があります。
運営会社の創立者は古河市兵衛さんというのですが、足尾銅山公害を担当したのは農商務省。
この農商務省の大臣・陸奥宗光の次男・陸奥潤吉が、なんと古河市兵衛の養子となっていたのです。
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つまり?
例えば今だと原発を担当する経済産業省の大臣の子どもが、原発会社で働いているとか、そんな感じ?
いや~、まさか現代にそんなことはないですよね~~~。
渡良瀬川上流の松木川では、じつに山手線内側1/3もの面積の山林が裸地化したままで、豪雨などでの土砂災害が懸念され、現代においても国交省渡瀬川河川事務所が数億円の対策事業を発表しています。
GoogleMapを見ると、該当エリアの写真は緑が薄く(茶色が目立ち)、当時の被害回復が残されている状況がわかります。
我々人類の生活は、自然を破壊することの上に成り立っているのが現実ですが、そこにはやはり一定の思慮、規制がなければなりませんね。
自然の回復は簡単なことではありません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
国土交通省足尾銅山(→link)
足尾銅山/wikipedia