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【樋口季一郎】
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「ヒグチ・ルート」で4000人以上が救われた
それから二年後。
ハルビンの地で第1回極東ユダヤ人大会が開かれます。
既にヨーロッパでは、ドイツでヒトラーが台頭しており、ユダヤ人やロマ族などの迫害を進めていました。
この時点の東アジアには、ドイツ国内ほどの影響力がなかったと思われますが、ソ連の動向によっては手遅れになる可能性もあったでしょう。
ドイツと同盟関係にあった日本がどう動くのか。ユダヤ人たちはさぞ緊張していたと思われます。
この大会に、陸軍の中でもヨーロッパ情勢やユダヤ人についての知識を持つ者が数人派遣されました。
そこに樋口も含まれており、祝辞を述べています。
彼は「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と主張、間接的にナチスの政策を批難しました。
列席したユダヤ人たちは拍手喝采し、瞬く間にこの話はユダヤ人コミュニティの中で広がったようです。
大会から三ヶ月後のことでした。
ソ連と満州の国境にあるシベリア鉄道・オトポール駅(現・ザバイカリスク駅)に、18名のユダヤ人がヨーロッパから逃げてきました。
彼らの目的地は上海租界。そこへ行くためには、満州でさまざまな事務手続きをしなければなりません。
しかし、満州政府はドイツとの関係悪化を恐れ、なかなか手続きを進めたがりませんでした。
このことが極東ユダヤ人協会の代表であるアブラハム・カウフマンから、樋口に伝えられます。
見るに見かねた樋口は、部下たちと共にユダヤ人たちへ食料や衣類、寒さを凌ぐための燃料、医療の手配、上海へ行くためのルート確保を行いました。
この話もまたユダヤ人たちの間に広まり、いつしか「ヒグチ・ルート」と呼ばれるようになります。
1938年から1940年にかけ、このルートで上海へ渡ったユダヤ人は4,000人以上にのぼったとか。
オトポール事件と呼ばれ
この件に対して、やはりドイツから抗議が届きました。
陸軍の内部からも樋口への処分を求める声が高まります。
しかし樋口は、東条英機などの上司たちに対し「ヒトラーのお先棒を担いで、弱い者いじめをするのが正しいと思いますか?」と主張。
東条もこの意見に納得し、樋口を不問にするのです。
その後、再三にわたってドイツから抗議をされても「人道上の配慮は当然」とはねつけておりました。
これが「オトポール事件」と呼ばれている件です。
もっと知られていい話だと思うんですが、なかなか広まりません……。
オトポール事件では、一説に「二万人のユダヤ人が救われた」となっています。
が、後に樋口の回想録が再版された際、誤植か改竄がされたようで、実数は5,000人程度という見方が妥当なようです。
樋口はオトポール事件の際、かつて出会ったジョージアのユダヤ人のことを思い出したといいます。
10年以上経って覚えていて、自分や国の立場が危うくなるような行動に移すというのもスゴイですね。
同じくユダヤ人救済のために動いたオスカー・シンドラーやラウル・ワレンバーグとも共通するのは「何らかの個人的な形でユダヤ人と関わっていたことがある」という点です。
やはり親しい間柄の者がいると、情や熱意が生まれるものなのでしょう。
樋口はその後も、主に北方方面に所属していました。
しかし、そこで今度は自身も窮地に陥るのです……。
大ピンチだったキスカ島の撤退劇で奇跡的に被害ゼロ
北方方面で著名なのは昭和十八年(1943年)のアッツ島の戦い・キスカ島撤退、昭和二十年(1945年)の樺太・占守島防衛です。
それぞれで一つの記事にできてしまうほどの文量になりそうなので、今回はざっくりとまとめさせていただきます。
まず、アッツ島とキスカ島は現在のアメリカ・アラスカ州に属する北太平洋の島です。
キスカ島のほうがアメリカ本土に近いため、日本軍はキスカ島に戦力を多く送っていました。
しかし、米軍がアッツ島を先に攻めたので予測が外れます。
また、これらの島々は霧が発生しやすく時化になることも多かったため、兵の精神面も大きく損なわれていたようです。
結果、アッツ島守備隊は文字通り全滅。
米軍の飛行場があるアムチトカ島と挟まれることになったキスカ島の兵は、絶体絶命の状況に追い込まれたました。
大本営は北方方面の放棄と、キスカ島守備隊の撤退作戦を決めます。
キスカ島の守備隊を撤退させるための艦隊を指揮したのが、木村昌福(まさとみ)という人でした。
木村は紆余曲折の末、「この地特有の濃霧に紛れて艦隊をキスカ島に到着させ、直ちに乗船・撤退する」という作戦を樋口に提案しました。
一刻を争う状況だったこともあり、樋口は大本営の許可を待たずに許可を出し、実行。
武器の積み込みにかかる時間も惜しいため、武器を海中に投棄させたことも功を奏し、奇跡的に被害ゼロで撤退を成功させています。
インパール作戦やガタルカナル島など、激戦地が多かった南方戦線の悲惨さが際立つために、あまり語られませんが、このように北方も厳しい状況下にありました。
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