真珠湾攻撃

真珠湾攻撃で上空を飛行する九七式艦上攻撃機/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

真珠湾攻撃を裸の王様と看破した中学生・笠原和夫(仁義なき脚本家)

今から80年前――昭和16年(1941年)の12月8日。

南雲忠一率いる機動部隊がアメリカ合衆国ハワイ準州オアフ島にある米軍基地を奇襲しました。

ご存知、真珠湾攻撃です。

世界中に衝撃を与えたこの奇襲。

アメリカ本土でも様々な反応がありました。

その詳細は以下の記事にお譲りさせていただくとして、

真珠湾攻撃のときアメリカ本土の米軍人たちはアメフトを観戦中

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それでは日本での反応はどうだったのでしょう。

過去の戦争話ともなりますと、すでに結果が見えていることもあり『強引な判断を押し進めたのは一体誰なんだ』となりがちですが、逆に結果が見えてない人にとっては様々な思いを抱くシチュエーションであります。

当時の庶民はアメリカへの攻撃をどのように考えていたか。

中には、まだ中学生ながら「敗戦をハッキリと予感していた」笠原和夫氏のような人物もおりました。

 


開戦を喜ぶ人々「ついにこの日が来た!」

奇襲を受けたアメリカが激怒していた頃。

日本では『アメリカとも戦争を始めて、我々の未来は恐ろしいことになる……』なんて声は少数派で、むしろ『ついにこの日が来た!』と喜ぶ人たちが大勢いました。

例えば、徳富蘇峰、太宰治、正宗白鳥、長与善郎、伊藤整、上林暁といった作家たち。

彼らは、真珠湾攻撃を感動と共に受け入れました。

もちろん相応の理由はありました。

徳富蘇峰/国立国会図書館蔵

当時、日本は国際的に孤立していました。

昭和8年(1933年)に国際連盟脱退を表明してからというもの、世界中から圧迫感で包まれているような状況。

ゆえに、真珠湾攻撃は「虎の尾を踏んだ」というより、むしろ「閉塞感が打破された!」と考える人が多かったのです。

「ついにこの日が来た」というのは、戦争自体を賛美しているのではなく、苦境を打破するキッカケになるのではないか、という期待感だったんですね。

町ゆく人々はラジオを聞き入り、頰を紅潮させていました。

感極まって涙をこぼし、「僕の命も捧げねばならぬ」と思った坂口安吾のような人もいたのです。

かくして庶民の日常生活も急速に変貌しつつありました。

 


『もうこれからはアメリカ映画を見られなくなる』

太宰治は銭湯からの帰り道、驚きます。

灯火管制を受け、急に道が暗くなったのです。

戦争が始まったとはいえ、いくらなんでも暗すぎるのでは?と感じました。

作家の野口冨士男は『もうこれからはアメリカ映画を見られなくなる』と思い、映画館へ向かいました。

軍監マーチがけたたましく流れ、映画の音声をかき消さんばかりの中、彼はなんとか俳優の口から台詞を聞き取ろうと努力しました。

幸田露伴は、真珠湾攻撃で命を落とした若い男性たちのことを思い、涙をこぼしながら娘の文に語りかけました。

「考えてもごらん、まだ咲かないこれからの男の子なんだ。それが、暁の暗い空へ、冷や酒一杯で、この世とも別れて遠いところへ、そんな風に発っていったのだ、なんといっていいか、わからないじゃないか」

そして笠原和夫という名の中学生は、

『アメリカと戦争したって、勝てるわけがない』

と冷静に考えていました。

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