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【南方熊楠】
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昭和天皇に御前講義を行うほど有名に
当初、この運動はうまくいきませんでした。
しかし、柳田国男をはじめ、政府の内部にも「お国のためでも、やたら木を伐るのはマズくない?」と南方熊楠に賛同する人が現れ始めます。
そして10年に及ぶ活動の末、国会で「神社統合してもあんま意味ないじゃん」という決議が採択され、反対運動は実を結びました。
熊楠は、その後、積極的に各地の自然保護へ動いていきます。
それまではハッキリ言ってプータローのような生活でしたが、この保護運動の資金を作るために初めて国内で本を出したほどです。
やればできるのになぜやらなかった、というかよく家計がもったものです。
ただでさえ天才の熊楠が59歳まで溜めに溜め込んだ知識をぎっちり詰め込んだ本ですから、その濃密さは随一でした。
こうしてさまざまな面で有名になった熊楠は、即位数年目の昭和天皇への御前講義もしています。
昭和天皇も生物学の研究者で、自然保護には大変関心をお持ちでした。
現在皇居には都心にもかかわらず森が生い茂っていますが、あのあたり(吹上御所)は明治~大正時代に庭園やゴルフ場が作られていたのを、昭和天皇が「もう使わないから、そのままにしておくように」とお命じになったからなのです。
時系列的には熊楠の講義のほうが先ですが、もしかするとこのときの話から何かしら影響をお受けになったのかもしれませんね。
キャラメルの空き箱に粘菌の標本を入れて…
とはいえ、ただ講義をするだけで終わらないのが南方熊楠。
本来は桐箱などに納めるはずの献上品を、なんとキャラメルの空き箱に入れて献上したのです。
現在からしても相当無礼ですが、当時は戦前。
神そのものと思われていた天皇に対し、木箱ですらないお菓子の空き箱で渡そうと考えたその発想はどこから来たのかと。
しかし元から奇人であることが知られていたためか、この件は特にお咎めなく済みました。
お付きの人いわく「ヘンな奴だって聞いてたから、何をしでかすかわからないとは思っていた」そうです。
昭和天皇も基本的に細かいことは気にしないお人柄だったようで、後々「あのキャラメル箱は忘れられない」と仰っていたとか。
そもそも、市販のキャラメルなんてご覧になったことなかったでしょうしね……。
ちなみに中身は粘菌の標本だったので、一応、講義の内容に沿ったものではありました。
どっちにしろ丁寧に取り扱わなきゃいけない気がするんですが、そこんとこどうなんでしょう。
なお、南方熊楠の評価につきましては、研究者たちの間でも分かれるようで。
今回、参考文献にさせていただいた書籍の著者・唐澤太輔氏は「極端で不気味」という表現を使われております。
恥ずかしながら本稿だけではとても南方熊楠の魅力を表現しきれませんので、興味を持たれた方は『南方熊楠 日本人の可能性の極限 (中公新書)』(→amazon)をご覧いただけると良いと思います。
Kindle版ならスマホですぐに読めますので年末年始の一冊によさそうです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
唐澤太輔『南方熊楠 日本人の可能性の極限 (中公新書)』(→amazon)
南方熊楠/wikipedia