北海道開拓

岩出山城を出て北海道当別町を開拓&移住した伊達家支藩の家臣団(伊達邸で撮影)

ゴールデンカムイ 明治・大正・昭和

ゴールデンカムイ舞台 現実の北海道開拓は想像以上に過酷だった

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士族の生活安定

開拓使は、10年企画でした。

明治14年(1881年)にタイムリミットの10年間が過ぎて、次の時代に入ります。

朝ドラ『あさが来た』で話題になった五代友厚

その五代が関与して大問題になった「開拓使官有物払下げ事件」は、この開拓使廃止に伴って発生していますね。

五代友厚
五代友厚(才助)は薩摩随一の経済人 49年の生涯で実際何をした?

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当時、北海道には3つの県が置かれました。

・函館県
・札幌県
・根室県

そして開拓使に代わって置かれたのが、「北海道事業管理局」です。

この時代、政府で考えられるようになった政策が「士族の生活安定」です。

武士として俸禄を失って10年以上。

商売も農業もわからない士族たちは、生活が安定せず、反政府反乱に身を投じる者も多く、社会問題と化していました。

大名や上級士族はそれでもマシでしたが、下級士族は困窮するほかありません。

そこで、東北地方を中心とした県、下級士族が多い県から、集団で北海道に移民させることにしたのです。

あるいは大災害が起こった際、壊滅した村落から集団で移住してきた例もありました。

 

屯田兵制度

明治7年(1874年)に屯田兵制度が開始されると、こうした士族のために利用されました。

そのピークは明治15年(1882年)から明治29年(1896年)頃。

以降は縮小し、開拓が十分に進んだとして、明治37年(1904年)終焉を迎えます。

このころになると、毎年年間6万人ほどの移民がやってくるようになっており、屯田兵制度はその役割を終えたわけです。

屯田兵の出身地内訳を見ると、東北だけではなく西日本からもいます。

特に四国が多い。

一方で、東京や大阪といった都市部はほどんとおりません。

屯田兵の家屋(北海道開拓の村にて撮影)/photo by タクナワン wikipediaより引用

屯田兵は、一石二鳥以上のメリットがありました。

・貧窮士族の生活安定

・戦時は兵力となる

・北海道の警備を担当できる

・開拓の推進

・経費もあまりかからない

こうした屯田制で置かれた陸軍の師団が、「第7師団」、別名「北鎮部隊」です。

北海道の兵士だけでは足らず東北の兵士も加わって組織された「第7師団」は、日露戦争はじめ、多くの戦いにも参戦しています。

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屯田兵制度は、北海道開拓を果たすために大きな足跡を残しました。

ただ、この制度は戊辰戦争で敗北し、行き場のない人々から人生の選択肢を奪った、そんな暗い部分もあります。

それしか選びようのない人とその家族を、故郷から引き離し、過酷な環境に移住させたわけです。

そういう明治政府の暗部でもあるということは、留意せねばならないでしょう。

屯田兵が苦労して土地を耕す一方、北海道に赴くこともなく、土地を手にする者も出てきます。

明治30年(1897年)、「北海道国有未開地処分法」は、本州の投資家にまとまった大面積の土地を、開発と引き換えに提供するというものでした。

北海道の土地を大盤振る舞い……要は、資産家や華族が、額に汗することなく、その広大な土地を手にするというものでした。

この法律は、先住民に打撃を与え、小作争議の原因にもなっています。

明治の北海道には、明治時代の格差社会の歪みが顕著にあらわれておりました。というのも……。

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