わずか六百石の旗本から一代で老中にまで上り詰め、一時代を築き上げた田沼意次。
嫡子である田沼意知も、異例の若さで若年寄にまで出世を果たし、多くの幕臣や大名が田沼家とこぞって姻戚関係を結んだため、このまま開明的な田沼時代は続くかと思われました。
しかし……。
その意知が、江戸城内で佐野政言に斬られて頓死という異常事態が起きると風向きが一気に変わり、10代将軍・徳川家治の死と共に田沼意次は失職してしまいます。
失意の田沼家を継いだのは、意次の甥である田沼意致(おきむね)でした。
2025年の大河ドラマ『べらぼう』では宮尾俊太郎さんが演じる意致とは一体どのような人物なのか。
田沼時代の終わりという苦難と直面した意致の生涯を振り返ってみましょう。
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親族と外戚、人脈を活用するしかない田沼意次
かつては「日本三大悪人」の一人に数えられ、贈収賄と悪徳政治の権化のように言われ続けた田沼意次。
そのイメージは長く続いてきましたが、果たして意次はそこまで悪辣だったのか。
実は昔から、その点をもっと考察する必要があるのではないか?とは指摘されてきました。
間もなく迎える2025年大河ドラマ『べらぼう』は、そんな田沼意次の再評価に一石を投じる作品となるかもしれません。
なにせ主人公である蔦屋重三郎の飛躍を語る上で、開明的な【田沼時代】の再評価は欠かせない。
ではいったい当時の意次はどのような状況にあったのか。
江戸時代は、古くから徳川家康に付き従っていた家の子孫の武士たちが「三河以来」と称され、特別視されてきましたが、意次は八代将軍・徳川吉宗時代に取り立てられた新参者でした。
つまり政権内での人脈は圧倒的に不足しており、意次は自身が築き上げた人間関係によって政局を動かさねばならない。
そのために構築した人脈が、はたから見れば“持ちつ持たれつ”の関係にも見え、ひいては“悪徳政治家”という印象を増幅してしまったのでしょう。
確かに、顔見知り同士で利害を回すのは、よい事とは言えません。
しかし田沼家の人物は、松平定信のような名門とは大きく異なっていたことは考慮せねばならないはずです。
紀州藩人脈と関わりの深い一橋家
田沼意次の父である田沼意行(おきゆき/もとゆき)は、八代吉宗が紀州藩から引き入れた人物です。
その嫡男が意次であり、その下に弟の田沼意誠(おきのぶ)がいました。この意誠が、本記事の主人公・田沼意致(おきむね)の父となります。
兄の意次が享保4年(1719年)生まれであり、意誠は2歳下の享保6年(1721年)生まれ。
田沼意次は一橋家と近い関係にありました。
【御三卿】と称される田安・一橋・清水は、田安と一橋が吉宗、清水が家重の子を祖とします。
その成立過程から一橋家は吉宗以来の紀州藩人脈と深いつながりがあったのです。
意誠は吉宗の四男にして一橋家の祖である徳川宗尹(むねただ)の小姓として、武士としての奉公を始めると順調に出世を重ね、一橋家家老にまで上り詰めました。
兄の意次としては、弟と甥を一橋家の家老とすることは人脈を保つうえで重要。
新参者の意次にとって、信頼できる弟は欠かせぬ存在だったのです。
そのためなのか、大名家が贈賄を届けるときに経由する先として意誠の名が兄と共にあがることも確かではあります。
一例として、仙台藩主・伊達重村の贈賄相手があります。
こうして並べると「おぬしもワルよのぅ」という時代劇定番のセリフも思い浮かんでくる状況なのは仕方ないかもしれません。
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