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【三島弥彦】
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五輪予選会に飛び入りで優勝
明治44年(1911年)、「オリムピック大會予選競技会」が開催されることになりました。
スウェーデンで開催される第5回ストックホルム国際オリンピック大会の代表選考会となります。
スポーツ振興に青春を賭ける「天狗倶楽部」がこれを見逃すはずもありません。
予選大会の会場となったのは、日本初の本格的なスポーツ競技会場である「羽田運動場」。
その建設に尽力したのが、「天狗倶楽部」のメンバーである中沢臨川(『いだてん』で演じるのは近藤公園さん)です。
中沢は大学卒業後、京浜電鉄に技師長として勤めていました。
当時の京浜電鉄は、現在の羽田空港のあたりに、なんと6万坪もの土地を所有していたのです。
しかし、使用予定がない。
中沢はこれに着目し、押川とともに京浜電鉄経営者に直談判。
なんとか説得して、1万坪をスポーツ競技場として整備できるよう説得するのでした。
京浜電鉄側としてはただの慈善行為ではなく、スポーツ観戦を目的とした乗客増加をみこんでのことです。
残念ながらこの競技場は、数年後台風で冠水してしまい、使われなくなってしまいました。
とはいえ、日本初の五輪選考会会場として、歴史に名を刻んだのです。
「天狗倶楽部」のメンバーである三島弥彦も、この予選大会に参加することにしました。
面白いのが選手ではなく、あくまで審判として、です。
そこで根っからのスポーツ好きの血が疼いたのでしょう。
なんと三島は、飛び入りで
100メートル走
400メートル走
800メートル走
に参加、そのまま優勝してしまったのです。まさにスポーツ好きの快男児といったところです。
こうして三島は、長距離走の代表・金栗四三と並んで、日本初の五輪代表となりました。
御曹司の三島は、金栗とは別の困難に直面しました。
金銭面での苦労はないものの、周囲の無理解に苦しめられたのです。
「たかが“かけっこ”如きのために何を考えているのだ、けしからん!」
エリート一族ゆえの無理解ですね。
悩みながらも、三島はストックホルムへと旅立つことになるのでした。
ストックホルム五輪に参加したが……
明治45年(1912年)。
三島は、総勢わずか四人でストックホルム五輪に参加しました。
選手は金栗と自身の二人だけ。
随行員合わせて四人という少数メンバーであり、彼らが日本初の五輪代表です。
日本選手は欧米選手と比較すれば圧倒的に不利であり、好成績は期待できません。
それでも次に望みを繋ぐため、スポーツの灯をともすため、彼らは参加したのです。
三島は入場の際、旗手をつとめました。
日本選手団のあまりの少なさに記者たちは憐れみすら感じたものの、その心意気はつたわりました。
ただし、現実は甘くありません。
競技当日。
短距離100メートル予選に出場したところ、アメリカの選手等と同組で走ったところ、いきなりトップに1秒以上の大差をつけられる予選敗退。
200メートル予選も最下位。
400メートルでは一次通過こそしたものの、右足の痛みにより敗退してしまいます。
精神的なプレッシャーもあったようです。
エリート育ちの三島は、ライバルに食らいつく雑草タイプの金栗とは違い、挫折を知らないゆえにメンタルがやや弱かったようです。
三島は大会後、金栗と雪辱を誓いました。
金栗は、競技中に脱水症状となって農家の家に迷い込み、棄権してしまったのです(後に◯年ぶりにゴールの表彰を受けますが……)。
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五輪後は金融マンとして一生を終える
次のベルリン五輪は、第一次世界大戦のために中止。
金栗はそれでもめげずに大正9年(1920年)第7回アントワープ大会、大正13年(1924年)第8回パリ大会に参加。
一方で三島は、五輪挑戦は一度のみとなりました。
彼は五輪翌年の大正2年(1913年)に帝大を卒業すると、兄・彌太郎のいる横浜正金銀行に入行。
金融マンとして一生を終えました。
そして昭和29年(1954年)、死去。
享年67でした。
金栗とは違って生涯をアスリートとして捧げたわけではない――。
それでもアスリート時代は華やかなスターで、青少年に圧倒的な人気を誇っていたのが三島です。
なお、金栗四三と並んで大河『いだてん』の主人公となる田畑政治(たばたまさじ)は、水泳競技の功労者となります。
田畑は1932年のロサンゼルス大会から水泳の参加を目指し、日本のために尽力し、戦後は、1964年東京オリンピックの開催にも漕ぎ着けるのでした。
詳細は以下の関連記事をご覧ください。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
横田順彌(『快男児 押川春浪 (徳間文庫)』→amazon)
『朝日新聞100年の記事にみる〈7〉スポーツ人物誌 (1979年)』(→amazon)