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【九条武子】
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関東大震災で救済事業に取り組んだ5年後
良致が帰国したのは、大正九年(1920年)の年末でした。
ちょうど同じ年に武子が創立に関わった京都女子学園が開設されていましたが、夫の帰国後は武子も東京に来て、築地本願寺の付近で一緒に暮らしていたといいます。
このため、武子と良致の夫婦仲については「渡英前から険悪だった」「武子には他に好きな人がいた・離婚したがっていた」「良致はイギリス滞在中に浮気し、子供も作っていた」などなど、さまざまな説があります。
当人たちによる否定や肯定が残っていないのが、また判断に困るところです。
ただ、武子は自らも関東大震災で被災しながらも、築地本願寺の再建や負傷者及び孤児の救済事業に取り組んでいますので、深い慈愛の心を持った人であったことは間違いありません。
そういう人が、自分の夫にだけ冷たい……というのは、なかなか想像しにくいですよね。だからこそ、というパターンもありますが。
しかし、その慈愛が彼女の寿命を縮めてしまったのかもしれません。
関東大震災(1923年)から五年経った昭和三年(1928年)に、敗血症で亡くなってしまったのです。まだ42歳でした。
敗血症は傷口からの細菌感染によって発症する病気でもありますが、免疫力が落ちているときには、自分の体内にいる常在菌からも起こることがあるそうです。
おそらく、武子は過労がたたって発症してしまったのでしょう。
結婚には当事者同士が理解し合うことが一番必要
幸せだったのか不幸だったのか。
外から見てもわかりにくい武子本人はどう思っていたのでしょう。
その手がかりになる……かもしれないのが、晩年に書いた知人の娘の結婚相手について、相談を受けたときの手紙です。
この中で彼女は
「結婚には当事者同士が理解し合うことが一番必要だと思います。債券じゃないのですから」(意訳)
と書いています。
果たして武子と良致は理解し合った上で別居を乗り越えたのか、理解したからこそ気持ちが冷めきっていたのか……どっちでしょう。
行間を読めば良くも悪くも取れるだけに、真意が気になるものです。
冷静に考えていたことは間違いなさそうですけども。
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長月 七紀・記
【参考】
黒岩比佐子『明治のお嬢さま (角川選書)』(→amazon)
九条武子/wikipedia