ゴールデンカムイ 明治・大正・昭和

『ゴールデンカムイ』戦場に立ったアイヌたち 知られざる活躍 日露~太平洋戦争にて

漫画『ゴールデンカムイ』で重要な役割を果たすアイヌ人のキロランケ

彼はかつて第七師団に所属し、日露戦争を戦った経歴の持ち主でした。さらに第七師団の兵士として、イポプテ(煮立たせる、有古力松)も登場します。

と、そこで一つ疑問は湧いてきませんでしたか。

当時のアイヌは、誰しも戦地へ向かった?

そうでなければ、彼ら以外にも、戦地へ向かうアイヌはいた?

もちろん実際に戦場へ出向いたアイヌ人は少なくありません。

明治間もない戸籍法(1871年~)で日本人に組み込まれ、戦地へも駆り出された彼らの、勇敢な行動はたびたび讃えられたりもしました。

しかしそこには「勇敢なアイヌもいる」という差別の扱いもあったのです。

何をしようにも不当な圧力のもとで虐げられがちなアイヌの兵士たち。

本稿では、戦前の日本軍における彼等の活躍を見ていきたいと思います。

※本記事には、現代では差別的とされる表現が数カ所出てきます。当時の世相を正しく表現するため、敢えてそのままとしました。ご理解いただけますようお願い申し上げます

【TOP画像】ゴールデンカムイ7巻(→amazon

 


八甲田山に駆けつけた辨開凧次郎(イカシパ)

『ゴールデンカムイ』の舞台、直前の明治35年(1902年)。

雪深い青森県の山中で行われた「八甲田山雪中行軍訓練」で、当時の陸軍は、史上稀に見る規模の犠牲者を出しました。

訓練の参加者210名中、実に199名が遭難で死亡したのです。

八甲田山

このとき歩兵第五師団が、難航する救難と捜索のため、協力を求めたのがアイヌ民族。

寒冷な冬の山を捜索するのであれば、彼らこそ頼りになると考えたのです。

早速、要請を受けた茅部郡落部村(かやべぐんおとしべむら)のアイヌ・イカシパ(和名:辨開凧次郎/べんかい たこじろう)は、仲間10人を引き連れ、八甲田山へ向かいました。

『ゴールデンカムイ』ではこの中に、イポプテもいたという設定がなされています。

現場に到着した辨開らは、67日間、探索に参加しました。

が、もとよりほぼ全員が亡くなった事件ですから、彼等も生存者を発見することは出来ません。

その代りと言ってはなんですが、遺体と遺品の発見については優れた探索能力を発揮し、計11名の遺体と、多数の遺品を持ち帰ってきました。

遺族にとっては大きな慰みとなったことでしょう。

もともとイカシパは、弘化4年(1847年)にオトシベツ・コタン(八雲町)に生まれました。

彼には「偉大であり何でもできる」というアイヌ名が付けられており、大変、知勇に富む青年に成長。若くしてコタン(集落)を率いるようになります。

そして1876年(明治9年)から辨開凧次郎と和名を名乗るようになりました。

辨開は、日本軍の行軍を見て思うところがあったのでしょう。

寒冷地の行軍に長けたアイヌ部隊を組織すべきだと、陸軍大臣宛に陳情書を提出します。

我々は野蛮だと卑下しつつも、経験によって身につけた寒冷地を生き延びる能力がある――しかもそのための給金すら求めず、適切な戦闘を行いたいという願いを込めての陳情でした。

ところが、です。

陸軍省は現在の編成で充分であり、アイヌ部隊は必要ないという判断を下したのでした。イポプテの経歴は彼のものを辿るとわかりやすくなります。

 


第七師団と上川アイヌ

北海道における徴兵は、始めは旧松前藩領を対象としたものでした。

この当時の入営先は、第二師団(仙台)です。

例えば日清戦争のまっ最中、明治28年(1895年)には、屯田兵約4千名が組織され、第七師団が臨時構成されています。

初代師団長は、薩摩出身で屯田兵本部長である永山武四郎でした。

永山武四郎/wikipediaより引用

第七師団は、日清戦争では小樽から出征するものの、東京待機のまま終戦。

戦後、日露間の緊張が高まると、陸軍は軍備拡張に着手し、結果、第七師団は、対ロシア防衛の要として、月寒(のちに旭川)に設置されることとなります。

当時はまだ村であった旭川が町となり、明治33年(1900年)には、第七師団の建設請負工事が着工されました。

アイヌにとっては災難以外の何物でもありません。

明治20年頃まで、このあたりには彼らの集落がありました。

それが旭川に上川道路が開通し、屯田兵が入植してくるに従い、徐々に住処を奪われていったのです。

そして明治33年(1900年)。

旭川に師団司令部の設置が決まると、政府はアイヌとの約束を反故にしました。

当初、アイヌに「給与」される予定であった旭川周辺の土地が「給与予定」とされてしまったのです(近文アイヌ給与地問題)。

軍都・旭川は、アイヌの土地収奪を元に成立したものでした。

旭川を流れる忠別川/photo by DrTerraKhan  wikipediaより引用

※北海道には「◯別」という地名が多い。「別」とはアイヌ語で【川】を意味している

 


白襷隊の北風磯吉

そして1904年、ついに日露戦争を迎えます。

この戦いには、和人だけではなくキロランケのようなアイヌも兵士として応召、参戦することとなります。

明治33年(1900年)、第七師団に甲種合格した北風磯吉も、その一人です。

『ゴールデンカムイ』での杉元佐一も参加した斬り込み部隊「白襷隊」に志願。

二百三高地の激戦を生き抜きました。

 

『あんな状況で杉元、よく生きていたな……』と思った読者の方もおられるでしょうが、他ならぬ北風磯吉も生存。

奉天会戦では、敵軍内に孤立した味方へ援軍を求めるため、決死の覚悟で伝令をかって出て、武名を挙げております。

奉天会戦で後退するロシア軍/wikipediaより引用

そしてそれらの功績により、北風は功七級金鵄勲章が授与されました。

正確に申しますと、彼のみならず、戦闘に参加した63名のアイヌのうち実に58名が叙勲されたのです。

こうした奮戦と功績がアイヌの地位向上につながったのでしょうか?

確かに彼らは「勇敢なる旧土人」と賞賛されはしました。

ただ、その結果を受けて、アイヌの地位が向上する、差別がなくなるということは、ありませんでした。

むしろ、「アイヌですら功七級となるのだ、天皇陛下のために戦おう」と、政府の政策や忠誠心を煽るために利用されたのです。

北風は後にアイヌ語伝承者として、

『分類アイヌ語辞典』
『アイヌ語方言辞典』

の成立に貢献しています。

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