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【鈴木貫太郎】
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またしても凶刃に襲われ
日に日に悪化する情勢に対し、終戦工作を続け、ソ連の裏切りにより一時頓挫。
国内外のマスコミがポツダム宣言について穿った報道をしたことも相まって、さらに状況は悪化します。
鈴木は最終的に「天皇の名の下に起きた戦争は、天皇の名によって終わらせるほかない」と考えます。そうでなければ国民が納得せず、更なる死者が増えることを懸念してのことでした。
これは昭和天皇にも受け入れられ、玉音放送が決定されます。
が、鈴木をまたしても凶刃が襲います。
終戦に納得いかない一部の軍人が降伏阻止を図り、鈴木をはじめとした要人の殺害とクーデターをしかけたのです。
間一髪で鈴木は助かりましたが、敗戦と事件の責任を取り、内閣ごと辞職しています。
その後は「敗軍の将である」ということで積極的に政治へ関わろうとはしませんでした。
二回暗殺されかけて命が惜しくなっただけではなく、元とはいえ軍人が政治に関与することは相応しくないと考えたのでしょう。
自ら「敗軍の将」という単語を出すくらいですから、実質的にはとっくのとうに軍を離れていても、自分は「軍人」であるという意識が残っていたと思われます。
肝臓がんによって80歳で逝去
こうして日清・日露戦争から太平洋戦争という、日本史上最も大きな苦難の時代を生き抜いた鈴木。
最後は肝臓がんによって80歳で亡くなりました。
時代的にも役職的にも、おそらく気の休まる日はほとんどなかったことでしょう。
教科書などでよく見かける、鈴木の総理大臣時の写真にはその生き様がよく表れているように思われます。
憔悴しきったと見ることもできますし、国家最大の危機に対し決然とした面持ちであると捉えることもできるでしょう。
などとエラソーに言っているワタクシも、ただ暗記させられた学生時代には特に何も感じられませんでした。
今改めてお顔を拝見すると、一体どのような気持ちでそれぞれの職務を務めておられたのだろう、と考えてしまいます。
長月 七紀・記
【参考】
鈴木貫太郎/小堀桂一郎『鈴木貫太郎自伝 (中公クラシックス)』(→amazon)
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
鈴木貫太郎/wikipedia