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【華族制度(公侯伯子男)】
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爵位だけでなく進学や就職先も保証されていた
その他、華族の特権としては以下のようなものがあります。
・爵位の世襲
・有爵者の嫡出子は、成人時に従五位になる
・宮中席次の保有
・子弟の学習院入学
まとめると「男性なら、華族の家に生まれて成人すれば爵位・官位を得られる上、進学先・就職先も限定的ではあるが保証される」という感じですかね。
このほか「貴族院令の改正は貴族院の議決を経る」となっており、華族は制度的に自律自治の特権が保障されていました。
つまり、この時代の衆議院=民衆から選ばれた議員が「華族(もしくは貴族院議員)の人たちの◯◯を取りやめてほしい」と考えても、ほとんど口を出せる余地がなかったということになります。
現在の皇室典範が、他の法律と同じように国会で改正されるのとは異なっていますね。
これは後々まで尾を引き、大正時代からは「華族に特権ありすぎ!」という世論が高まりました。
そして華族制度そのものは昭和二十二年に施行された日本国憲法第十四条2項で「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と明記されるまで続いています。
その分、代々の天皇や世間から「国民の模範となるべき人々」として責任と義務も課せられていたのですけれどね。
ときにスキャンダルあり
華族はいわゆる「セレブ」扱いもされていて、華族の女性のグラビア写真が雑誌に掲載されたり、華族の生活が一般人のあこがれになったりしました。いつの時代も変わりませんねえ。
駆け落ちや心中などのスキャンダルもいくつか発生しています。
中にはミスコンで優勝して、学習院を放校されてしまった女性も……。
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まぁ、華族の身分や特権目当てにどこぞの馬の骨が寄ってこないとも限りませんので、ある程度の制限や用心は必要なんでしょうけどね。
この手のことについては、華族の女性たちがかなりの苦労をしていたようで……こんな話があります。
学習院には女子部があり、これが途中で華族女学校になったり、また学習院に統合されたりといろいろあったものの、基本的な生徒の家柄は変わりませんでした。
当時は「学内では生徒を様付けで呼ぶ」というローカルルールがあったくらいですから、内部の空気がうかがえますね。
当然、武家華族の令嬢たちも学習院に多く通っていました。
そしてあるとき、新たに赴任してきた先生が、徳川家のとある女性を「徳川!」と呼び捨てにしたのだそうです。
その女性は怒ることすら思いつかないほどに驚いて、ただ眼をぱちくりさせていたとか。
そうした「深窓の令嬢」が世間慣れしていくのは、大変なことだったでしょうね。
そんな感じで、やはり華族と一般人の視線は互いに異なるものでした。
学習院で体育の授業や体育祭が行われるようになった頃、「女子が屋外で運動をし、それを人に見せるなどはしたない」というような記事を書いた新聞もあったくらいです。
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