明治五年(1872年)7月9日は、マリア・ルス号事件が起きた日です。
事件の知名度は高くなく、かつ語感からして国外で発生したトラブルのように思われるかもしれませんが、実は日本も当事者の一人。
清(中国)とペルーの板挟みとなり、奴隷問題も絡んだ、明治初期ならではの事象と言えるかもしれません。
いったい何が起きたのか?順を追って見て参りましょう。
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奴隷がダメ?アジア人ならいいだと?
マリア・ルス号は、ペルー船籍の船でした。
事件前はマカオからペルーに向かう途中で横浜に寄港し、修理をしようとしていたところです。
船には乗員や荷物だけでなく、中国人の苦力が231人乗っていました。
苦力とは、19~20世紀に西洋諸国や南米で使われていた、中国人・インド人の肉体労働者のことです。
インド人のほうが先にクーリーとして使われ始めたため、「苦力」は中国人も対象になってからの当て字なんだとか。
確かに、カタカナだとなんとなくインドっぽい雰囲気が漂いますね。
欧米で奴隷が廃止されたため肉体労働者を地元で集めることができなかったので、「アジア人ならいいだろ」という理由で、あっちこっちへ連れていかれてこき使われたのです。
つまり、使われるほうの民族や出身地が変わっただけで、奴隷というシステム自体は何も変わっていませんでした。
黒歴史満載のアメリカ大陸横断鉄道の建設現場で働いていた中国人たちも苦力です。
もっとも、それを跳ね返すかのようにチャイナタウンを作って栄えていくのですが……この時代に限らず、中国人のエネルギーは「すげぇ」の一言ですね。
マリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断
陸の上ならともかく、こうした窮屈な船の中で過酷な労働を強いられれば、人間、考えられる選択肢はわずか。
1872年の7月9日、同船員の中で最も希望を含んだものを考えていたであろう一人の苦力がいました。
彼は、マリア・ルス号から海へ飛び込み、イギリス軍艦・アイアンデューク号に救助されます。
そしてこれを機にコトは大きくなって参ります。
横浜は開港されてしばらく経っていましたから、飛び込んだ船員も「どこかの船に拾ってもらえれば助かるかも」と考えていたのかもしれません。
彼から事情を聞いたであろうイギリス人達は、マリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断し、イギリス在日公使へ連絡します。
そこから日本政府に対し、中国人救助の要請が行われました。
イギリスは一応1833年に奴隷廃止令を出していたので、よそのこととはいえ放置するわけにはいかなかったのでしょう。
これを受け、当時の外務卿(外務大臣)副島種臣は、神奈川県権令(県副知事)の大江卓に中国人救助を命じます。
日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかったため、政府内には「ペルーとの間で揉めると面倒なことになる」との意見もありましたが、人道主義と主権確立という理由から、副島が押しきりました。
「奴隷契約は無効!」「んじゃ、お前らの遊女はどうなんだ!」
結果、マリア・ルス号へ横浜港からの出航停止を命じ、7月19日に中国人全員を下船させることに成功しました。
船長は訴追され、横浜で裁判。
7月下旬には「中国人を解放すれば出港OK」との判決が出ますが、船長は納得せず、再審を要求します。
まぁ、船長からすれば、いきなり寄港先で自分のところの労働者を取り上げられた上、出港を禁じられてスケジュールが狂い、経済的損失が出ているわけです。
そりゃ控訴の一つもしたくもなりますよね。
2回目の裁判では「中国人と結んでいた契約の内容は奴隷契約であり、人道に反しているから無効」とされ、1回目と同じ判決が下りました。
しかし、この裁判で船長側の弁護をしたイギリス人が「奴隷契約が無効であるというなら、日本国内の遊女はどうなんだ」として、遊女の年季証文の写しと横浜の病院による報告書を提出してゴネます。
どうやって手に入れたんだ……。
確かにそれも事実ですが、この問題とは関係ないですよね。
しかもイギリスにも公・私共に娼婦はいたのですから、よそのことを言えた立場ではありません。
この事件より後のことですが、1888年の切り裂きジャック事件の被害者が娼婦ばかりというのも、当時のロンドンでそういう仕事をしていた女性が多かったことを示唆しています。
また、同時期のイギリス国内では超過労働や児童労働があっちこっちで行われていました。
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「奴隷という名前ではないが、奴隷同然の状況」というなら、この時期のイギリスは日本の公娼をアレコレいえません。
まあ、当時の日本にそこまで知っている人がいなかったでしょうし、口の立つ人も同様。
先祖代々、三枚舌を駆使してきた国の人に勝てるわけがありませんでした。
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