では、徳川家康の弟の名前は?
そう問われて、パッと名前が出てくる方は相当の歴史通でありましょう。
本日はすっかり忘れられてしまった家康の弟・松平定勝……その息子に注目します。
家康から見れば甥っ子で松平定政という人で、なかなか強烈なことをやって歴史に名を残しています。
慶安四年(1651年)7月9日、徳川一門でありながらいきなり出家してしまったのです。
「何がどうしてそうなった?」としか言えない一件。
まずは彼の持つ背景から見ていきましょう。
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父は久松俊勝 母が家康と同じ
まず定政の父・松平定勝に少し注目しますと、前述の通り家康の弟です。
といっても異父弟であり、父親は久松俊勝(ひさまつとしかつ)となります。
大河ドラマ『どうする家康』ではリリー・フランキーさんが久松長家の名で登場(後に俊勝へ改名)。
家康の母・於大の方が、松平広忠(家康の父)と離縁した後に嫁ぎ、そこで生まれたのが家康の弟・松平定勝となります。
【徳川家康】
父・松平広忠
母・於大の方
【松平定勝】
父・久松俊勝(久松長家)
母・於大の方
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そしてその定勝の息子で、今回の主役である松平定政は、家康の甥に当たり、慶長15年(1610年)に生まれました。
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11才のときに父・定勝と共に将軍・徳川秀忠にお目見えして馬を賜り、寛永10年(1633年)には三代将軍・徳川家光に御小姓となって仕え、組頭にもなってます。
23歳のとき官位(従五位下能登守)をもらい、25歳で伊勢長島城(現・三重県)に領地を与えられ、39歳のときに刈谷(現・愛知県)で2万石に加増。
刈谷と言えば、祖母にあたる於大の方(水野家)の出身地ですね。
家康に縁のある土地で大名となったのですから、この時点ではそれなりに信頼されていたということでしょう。
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松平定政42歳 出家ストーリーは突然に
実際、長島城時代には新田開発に勤しんだり、城の整備や庭園の造営など。
なかなか精力的に働いています。
ところが、です。
上述の通り、42歳(1651年)のとき突如出家します。
一応「上様(徳川家光)が亡くなられたので、その供養に」という理由だったのですが、事前の相談や届け出が全くなかったので、幕閣は大混乱となりました。
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親族や老練な幕臣の後ろ盾はいくらあっても足りず、幼君擁立の混乱に乗じて不届き者が出かねないというタイミングです。
そんなときに大叔父にあたる人が「俺仕事やめまーす!」とか言い出したら、そりゃ誰だってキレますよね。
定政は出家にあたって、「領地や家、武器などを全て幕府に返上するから、困ってる旗本や浪人を救ってあげて」と書き送っておりました。
しかも実際に「松平能登入道にものたべものたべ」と言いながら托鉢して歩いたというのですから、そりゃあ幕府も驚くばかり。
「狂気の致すところ」として、領地及び財産を取り上げ、定政とその長男・次男については定政の兄・定行の「お預かり」としました。伊予の松山に蟄居させられたのです。
定政の正室は、娘二人と共に実家へ返されておりました。
ここまでなら「手続きしなかったのはマズイけど、供養したいのなら……」と思わなくもありません。しかし……。
定政の行動は、幕府に実害を引き起こしたのですからシャレになりませんでした。
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