久松長家

久松長家の再婚相手・於大の方(左)と徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

家康生母の再婚相手・久松俊勝(長家)が織田や松平に飜弄されて迎えた結末とは

天正15年(1587年)3月13日は久松俊勝(長家)の命日です。

一瞬『誰それ?』と思われるかもしれませんが、2023年の大河ドラマ『どうする家康』でリリー・フランキーさんが演じていた武将と言えばピンとくるでしょうか。

家康の生母である於大の方(松嶋菜々子さん)と再婚した人物ですね。

ドラマのキャッチコピーでは「適当こそわが人生」という、ダラけた雰囲気の人物設定でしたが、何をもってして久松俊勝はそんなイメージとされてしまったのか?

一体どんな武将だったのか?

久松俊勝の生涯を振り返ってみましょう。

 

久松俊勝 水野氏の娘・於大の夫となる

久松氏の始まりは応永20年(1413年)――。

尾張国守護・斯波氏の家臣である久松道定が、知多郡阿古居に所領を与えられたことでした。

その後、守護の斯波氏は衰退してゆき、代わって台頭してきたのが守護代の織田氏です。

久松氏は、そうした情勢の変化により翻弄されながら、大永6年(1526年)に生まれたのが久松俊勝です。

※ドラマでは長家でしたが俊勝で統一します

俊勝は織田信秀と同盟を結ぶと、天文17年(1547年)、後妻として水野信元の妹である於大を迎えました。

前述の通り、徳川家康の実母ですね。

享禄元年(1528年) 生まれの彼女は、俊勝の2歳下であり、尾張国知多郡阿久比の坂部城に住むこととなりました。

以下の地図をご覧のとおり、

坂部城は岡崎城の西に位置し、水野の刈谷城からもほど近い立地となります。

そこで彼女は生別した我が子・竹千代のもとへ、折々手紙を送り続けました。

永禄3年(1560年)には、坂部城で母と子は束の間の再会を果たしますが、この感動的な場面の背後には、久松俊勝の配慮もあったことでしょう。

久松氏のような国衆は、様々な勢力と連携しながら生き残りの道を模索するしかありません。

当時、松平元康であった家康と生母の再会を演出して、松平とも接近する好機を得るのは自然なことでした。

※以下は徳川家康ならびに於大の方の考察記事となります

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今川から自立する義理の息子と協力

永禄3年(1560年)に勃発した【桶狭間の戦い】での久松俊勝は、松平元康と連携していました。

そして今川義元が討たれ、同家に翳りが見えると、俊勝は元康に与することを決断。

今川家と対峙した元康が永禄5年(1562年)に三河を攻め、鵜殿長照を滅ぼすと、その居城であった上ノ郷城を久松俊勝に任せました。

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そして俊勝の子である康元・勝俊・定勝に松平姓を名乗らせたのです。

かくして家康の異母弟たちは松平氏に組み込まれ、一族は久松松平氏と称されます。

三河支配を盤石なものとするため、元康は女系の血統を活用したのでした。

 

義理の子に巻き込まれ 名も変わる

久松俊勝とその子たちの命運は、後妻の子によって左右されてゆきます。

実は名前すらそうで、今川家から独立する上で、元康は家康に改名しましたが、さて、この「家」の字はどこから来たのか?

「八幡太郎は恐ろしや」と詠まれた、伝説の武士・源義家にあやかったともされます。

義家の子孫は源実朝で途絶えていますので、もしも徳川家康が「源義家の子孫である」と語るとしたら、それは詐称です。

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あるいは『書経』由来とか、さらには義理の父からとられたともされます。

しかし、後に家康が出世しすぎたためか、

徳川将軍家にとって「家」は特別な通字となったため、後世になってから由来が盛られた可能性は否定できないでしょう。

実際、家康が出世すると、俊勝は、長家から俊勝に改名しているのです。

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