久松俊勝

絵・小久ヒロ

徳川家

久松俊勝の生涯|家康生母・於大の方の再婚相手は織田や武田の強国に囲まれて

2025/03/13

天正15年(1587年)3月13日は久松俊勝(長家)の命日です。

一瞬『誰それ?』と思われるかもしれませんが、2023年の大河ドラマ『どうする家康』でリリー・フランキーさんが演じていた武将と言えばピンとくるでしょうか。

家康の生母である於大の方(松嶋菜々子さん)と再婚した人物ですね。

ドラマのキャッチコピーでは「適当こそわが人生」という、ダラけた雰囲気の人物設定でしたが、何をもってして久松俊勝はそんなイメージとされてしまったのか?

一体どんな武将だったのか?

絵・小久ヒロ

久松俊勝の生涯を振り返ってみましょう。

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久松俊勝 水野氏の娘・於大の夫となる

久松氏の始まりは応永20年(1413年)――。

尾張国守護・斯波氏の家臣である久松道定が、知多郡阿古居に所領を与えられたことでした。

その後、守護の斯波氏は衰退してゆき、代わって台頭してきたのが守護代の織田氏です。

久松氏は、そうした情勢の変化により翻弄されながら、大永6年(1526年)に生まれたのが久松俊勝です。

※ドラマでは長家でしたが俊勝で統一します

俊勝は織田信秀と同盟を結ぶと、天文17年(1547年)、後妻として水野信元の妹である於大を迎えました。

前述の通り、徳川家康の実母ですね。

享禄元年(1528年) 生まれの彼女は、俊勝の2歳下であり、尾張国知多郡阿久比の坂部城に住むこととなりました。

以下の地図をご覧のとおり、

坂部城は岡崎城の西に位置し、水野の刈谷城からもほど近い立地となります。

そこで彼女は生別した我が子・竹千代のもとへ、折々手紙を送り続けました。

永禄3年(1560年)には、坂部城で母と子は束の間の再会を果たしますが、この感動的な場面の背後には、久松俊勝の配慮もあったことでしょう。

久松氏のような国衆は、様々な勢力と連携しながら生き残りの道を模索するしかありません。

当時、松平元康であった家康と生母の再会を演出して、松平とも接近する好機を得るのは自然なことでした。

家康の生母で久松俊勝と再婚した於大の方/wikipediaより引用

 


今川から自立する義理の息子と協力

永禄3年(1560年)に勃発した【桶狭間の戦い】での久松俊勝は、松平元康と連携していました。

そして今川義元が討たれ、同家に翳りが見えると、俊勝は元康に与することを決断。

今川家と対峙した元康が永禄5年(1562年)に三河を攻め、鵜殿長照を滅ぼすと、その居城であった上ノ郷城を久松俊勝に任せました。

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そして俊勝の子である康元・勝俊・定勝に松平姓を名乗らせたのです。

かくして家康の異母弟たちは松平氏に組み込まれ、一族は久松松平氏と称されます。

三河支配を盤石なものとするため、元康は女系の血統を活用したのでした。

 

義理の子に巻き込まれ 名も変わる

久松俊勝とその子たちの命運は、後妻の子によって左右されてゆきます。

実は名前すらそうで、今川家から独立する上で、元康は家康に改名しましたが、

徳川家康/wikipediaより引用

さて、この「家」の字はどこから来たのか?

「八幡太郎は恐ろしや」と詠まれた、伝説の武士・源義家にあやかったともされます。

義家の子孫は源実朝で途絶えていますので、もしも徳川家康が「源義家の子孫である」と語るとしたら、それは詐称です。

あるいは『書経』由来とか、さらには義理の父からとられたともされます。

しかし、後に家康が出世しすぎたためか、

徳川将軍家にとって「家」は特別な通字となったため、後世になってから由来が盛られた可能性は否定できないでしょう。

実際、家康が出世すると、俊勝は、長家から俊勝に改名しているのです。

 

織田信長の猜疑心が投げかける悲運

永禄5年(1562年)、家康と信長の間に結ばれた【清洲同盟】は、久松俊勝にとっても利のあるものでした。

ただし、メリットだけではなく、暗い影も落とします。

俊勝と先妻の間の子・である久松定員(信俊)は、父から継いだ坂部城主となり、織田氏につく道を選びました。

すると天正3年(1575年)、久松定員と、於大の兄である水野信元が、織田信長から武田勝頼との内通疑惑をかけられたのです。

織田信長/wikipediaより引用

「謀反の疑いあり」

そう追い詰められ、定員は大阪・四天王寺で自刃。

坂部城は織田信長の家臣・佐久間信盛に攻め落とされました。

家康が母と再会を果たした坂部城は、こうして焼け落ちたのです。

久松定員は滅び、その子孫は久松松平氏を頼って仕える道を選ぶしかなく、俊勝も辛い道を選ばされます。

信長の命を受けた家康が、水野信元を三河に呼び寄せ、養子もろとも殺害すると、この顛末に怒り嘆いた俊勝は隠棲することを選んだのです。

織田信長は、徳川家康の家族に対して、しばしば武田勝頼との内通疑惑をかけています。

やがてこの猜疑心は、家康の正室である築山殿と、その間に生まれた嫡男・松平信康の命をも奪うことにもなります。

松平信康/wikipediaより引用

そして織田信長が没した5年後の天正15年(1587年)3月13日、ひっそりとその生涯を終えました(14日とも)。

享年61。

 


戦国時代の国衆が“適当”に生きるとは?

もう一度『どうする家康』の公式キャッチコピーを見てみましょう。

適当こそわが人生

家康の義父

久松俊勝を演じたリリー・フランキーさんは、世渡りの上手いキャラクターであると感じ、ユーモアを交えて演じたいと語っていました。

しかし、歴史的に見て、そうした表現は妥当だったのでしょうか?

例えば、大河ドラマにおいて国衆の役割が大きくクローズアップされることになった、2016年『真田丸』と2017年『おんな城主 直虎』に注目してみますと……。

『真田丸』の真田昌幸は、武田、北条、上杉、徳川、豊臣と、主君をめまぐるしく変えました。

『おんな城主 直虎』の井伊直虎にしても紆余曲折を経ています。

当初は今川に仕えていながら、様々な苦難を乗り越え、最終的には大事な跡取り・井伊直政を徳川に託していた。

彼らも久松俊勝と同じように主君を替えています。

描き方によっては、コロコロと簡単に主君を乗り換えるようにも見えるかもしれません。

しかし、実際のところはどうなのか?

一歩間違えれば一族が殺されてしまう――そんな過酷な状況下で、それこそ血の滲むような決断の末に、国衆たちは自分たちの主君を決めていたはずです。

『真田丸』の真田昌幸は「大博打じゃあ!」と言い表したものの、

真田昌幸/wikipediaより引用

あれは彼の個性が並外れて強靭に描かれただけであり、常人からすれば胃に穴が開きそうな状況でしょう。

久松俊勝も、そうした国衆の一人です。

激戦地となる尾張と三河の狭間にいて、さらに甲斐には武田信玄と勝頼という強力な父子がいる。

あまりにも凄まじい修羅場で適当に生きるとか、そんな呑気な心持ちでいられるでしょうか?

むろん、そんなわけはありません。

 

そもそもヒモなのか 恥ずかしいのか

事実、久松俊勝は、先妻との間にできた子と孫、義兄を失っています。

『どうする家康』で彼の生き方が“適当”に見えるのだとすれば、家康が天下人になるという結果を知っている現代人ならではの感性です。

・再婚相手が美人(松嶋菜々子さん演じる於大の方)

・しかも、その再婚相手の子(徳川家康)が優秀だから、おこぼれにあずかった

・それを「ヒモ」とたとえてしまう

こんな認識でしょう。それを戦国時代の世界観に練り込んで、しかもドラマにおけるキャッチコピーにするのは、やはり問題があるはず。

そもそも「ヒモ」とは、女性に働かせ、金銭を貢がせる情夫を指すスラングです。

於大の場合は彼女自身が労働者ではありませんので、この言葉が適切かどうか。

仮に、女性側の財産で男性が養われるとしても、この状態を恥ずかしいとするのは、歴史的にはごく最近の話です。

『鎌倉殿の13人』での源頼朝は、妻・政子の北条一族や、乳母の比企一族を頼りにしていました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

あの作品では、そうした状態を「ヒモ」とは形容していません。女系の力を借りることを恥ずかしいと思う価値観そのものが、中世の日本にはないのです。

慈円はそうした状況を『愚管抄』に「女人入眼」と記すほどでした。

鎌倉時代に北条泰時が定めた御成敗式目からもわかります。

この法律では、女性による財産や家督の継承が規定されていました。

女性だったかどうかの議論はさておき、井伊直虎が女城主として井伊家当主と認識された根拠のひとつでもあります。

 


歴史劇のタブーとは

江戸時代以降、女性の大名は消えてゆきます。

それでも当時の女性には、自力で稼ぐ手段はありました。

幕末に来日した外国人の目からすると、自分の技能を教えて稼ぐ女性の姿は興味深いものとして映ったほど。

それが明治時代となると、西洋由来の家制度、家父長制が持ちこまれ、女性が稼ぐ手段が無くなってしまいます。

法律的にも女性は判断能力がないと見なされました。

たしかに、朝の連続テレビ小説『あさが来た』ヒロインのモデルとなった実業家・広岡浅子のような女性もいます。

広岡浅子 新時代を拓いた夢と情熱(→amazon

彼女のような有能な女性ですら、男性名義で取引や契約をせねば事業を回せなかったのです。

こうした制度のもとで、根付いてしまった偏見は根深い。

女の稼ぎや財産で養われる男はみっともない。

適当に生きている。

あいつらは異常で不自然、男らしくなくて情けない、「ヒモ」なのだ――。

『どうする家康』の久松俊勝は、そんな歴史の浅い偏見を元に描かれていたように思えてなりません。

どうするジェンダー観――。

2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟』は再び戦国時代が舞台になります。

久松俊勝のような知名度の低い国衆たちにも出番があれば、栄誉ある描かれ方を期待したいと思います。

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【参考文献】
大石泰史『全国国衆ガイド』(→amazon
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(→amazon
『新書版 性差の日本史』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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