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【マリア・ルス号事件】
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ゴタゴタは続き、ロシアで仲裁裁判が開廷される
いずれにせよ、こうした難癖は裁判に加味されなかったらしく、中国人苦力たちは清の使節に引き渡されました。
清王朝の時代でしたので、同国政府は日本の友情ある行動に感謝したとか。
しかし、ペルーとのゴタゴタはまだ解決していませんでした。
翌年2月、ペルーの海軍大臣が訪日し、マリア・ルス号事件に対して謝罪と損害賠償を要求してきたのです。
あちらさんの金銭問題を考えれば理にはかなっています。非道ですけれども。
この紛争を解決するため、日本とペルーにとって第三者であるロシア帝国によって仲裁裁判が開かれることになりました。
裁判は当時のロシア皇帝・アレクサンドル2世(最後の皇帝・ニコライ2世の祖父)により、サンクトペテルブルクで行われました。
日本側の代表として、榎本武揚が出席しています。箱館戦争で生き残ったあの人です。
※以下は箱館戦争の関連記事となります
箱館戦争で土方が戦死し榎本が降伏するまで何が起きていた? 佐幕派最後の抵抗
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裁判は明治八年(1875年)6月まで長引き、最終的に
「日本側の措置は国際法にも条約にも違反せず、妥当なものである」
という判決が出ました。
日本の言い分が認められたのです。
芸娼妓解放令は1918年人種的差別撤廃提案への布石に?
話が前後しますが、明治五年の秋には「芸娼妓解放令」という法律が出され、公娼制度は廃止されています。
しかし、これはあくまで公娼がなくなっただけで、売春自体が禁止されたわけではありません。
また、開放された芸娼妓の再就職先や嫁ぎ先が世話されたわけでもないので、生活のために私娼として夜の世界に戻らざるをえない女性も多かったとか……。
その一方で、この法律がきっかけとなり「女性を身売りに出すのではなく、生活の術を得られるように教育や軽工業の技術を身につけさせよう」と方向転換した地方もあったようです。
それでも、1930年代の昭和東北大飢饉などでは身売りせざるを得なくなったりしたのですが……。
まあ、これは時代背景や価値観の問題でもありますね。
女性が自立したところで「家事・育児をどうするか?」という視点がなければ、現代のように少子化まっしぐらになるわけですから。
もしかすると、芸娼妓解放令は1918年に行われた人種的差別撤廃提案への布石になったかもしれません。
この提案の主導者が誰なのかわかっていないのですが、その人は「昔マリア・ルス号のときアレコレ言われたから、こっちから差別撤廃を持ちかければ欧米は受け入れざるをえないはず!」と考えた可能性もありましょう。
結局こちらは、米英ほか数か国に拒否されてうまく行かなかったのですけれども。
女性や奴隷差別についてはツッコんできたくせに、人種差別だけは拒んだ米英(+α)ェ……。
全てがうまくいく世の中なんて夢のまた夢ではあります。
しかし、二番を目指していては二番にもなれないように、理想を追いかけることで改善に向かう、というのも大事ですよね。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
マリア・ルス号事件/Wikipedia
芸娼妓解放令/Wikipedia