昭和二十年(1945年)8月5日、湯の花トンネル列車銃撃事件が起きました。
字面から何やら嫌な雰囲気が感じられますかね。
コトの詳細もまた恐怖と共に吐き気や嫌悪感に襲われる方が多いかと思います。
残虐な表現は控えますけれども、苦手な方は各自退避していただけますよう、よろしくお願いいたします。
まずは当時の状況を簡単にお話するところから始めましょう。
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当初は軍需工場等を対象だった空襲が
1945年この年の夏、7月26日にポツダム宣言が出されました。
日本政府や新聞各社はこれを無視しておりましたが、戦局に目を向ければ、サイパンや硫黄島などの拠点は既に米軍の手に陥落。
そこから日本本土に向けて空襲が度々行われるようになります。
一方、旧日本軍は本土防衛のための飛行機やパイロットは不足しており、本土決戦のために取っておく……という本末転倒な状態でした。
現代目線から考えれば、こうした状況でなお戦争を継続させた判断を理解し難いことでしょう。
日本の本土に空襲が行われた当初、狙われたのは軍需工場が多い町や軍の拠点がある町、あるいは大都市でした。
そして時の経過に従って、ほとんど一般人しか乗っていない電車も襲われ始めます。
むろん鉄道の線路を破壊するということは、物資輸送の遮断にもなりますので軍事戦略的な意味がないとは言いません。
しかし、後述のように米軍は明らかに、襲撃する戦略的意義はなく人道的にまずい列車を襲っているので、そもそもそんな視点があったかどうかは疑わしいところ。
湯の花トンネル列車銃撃事件は、この種の事件の中でも最も被害者が多かったものでした。
進行方向の左側から突如P-51戦闘機が!
それは1945年8月5日、午前10時10分のこと。
長野行きの下り列車が新宿駅を出発しました。
列車には、軍関係者が乗車する二等車と荷物車も連結されておりましたが、この日乗っていたのは富士演習場に向かう19名だけで、他はほとんどが一般人。
3日前に襲われた八王子空襲で、八王子駅が焼失しており、更には途中の列車交換に時間がかかったことなどもあり、列車は浅川駅(現在は高尾駅)に到着すると、予定より1時間遅れで出発しました。
この時点で既に空襲警報は発令されておりました。
もしも停車中の列車がそのまま駅に留まっていれば、後の悲劇も起きなかったでしょう。
しかし歴史にIFはありません。
ただでさえ遅れがちだったところに加えて、乗客の一部が「早く出せ!」と怒鳴り散らしたこともあり、列車は出発します。
空襲警報を聞いていた乗員たちにしても「湯の花トンネルや小仏トンネルに入った方が安全である……」と考え合わせていたようです。
しかし……。
列車が、南多摩郡浅川町(現・八王子市裏高尾町)、湯の花トンネルの手前に来ると、目の前、進行方向の左側から、突如、米軍機が飛んできました。
太平洋側から飛来した、複数のP-51戦闘機です。
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