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【戦火の中の宝塚】
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髪の毛が抜け始めて発熱 全身が痒みに襲われる
原爆投下から数日後、彼女の体を異変が襲います。
髪の毛が抜け始めて発熱。
かゆみに襲われ全身をかきむしりだしました。
やがて皮膚には黒い点が出て、腫瘍が出来て破裂して、血膿があふれ……。激しく下血し、意識は濁り、息づかいがせわしくなり、幻覚すら見るようになります。
彼女の体は、原爆症に蝕ばまれておりました。
もうろうとした意識の中、彼女は最期にこうつぶやきました。
「私は芝居がしたいの……」
32才の生涯でした。
現役生の中には宝塚に戻れない人たちもいました。
焼け出されて戻る余裕がなかったのか。あるいは戦火に散ったのか。
戦争の影響を最も受けた第三十三期生120名のうち、初舞台を踏めたのはわずか59名でした。
1946年 米軍に接収されていた劇場が戻る
全国に散らばり、苦難の時を過ごしていた宝塚の団員たち。
終戦後、全国から生徒たちが戻り始めました。
戦争が終わったとはいえ、まだ日本全国が焼け跡になっていて、食べ物もない時期です。
そんな中でありながら、終戦後から一ヶ月も立たない九月には有志によりレッスンが開始されます。寄宿舎はすし詰め、勤労奉仕ばかりしていて練習するのも久々という大変な状況でも、踊り歌える喜びはかけがえのないものでした。
衣装もメイク道具も不足しています。
替えなんてないから、洗ったものを干してすぐさま使う状態です。
盗難事件も発生しました。
粗悪なメイクがはがれおち、カツラがずりおちるなんてこともしょっちゅう起こりました。
もっと深刻な問題もあります。
栄養不足であるにも関わらず厳しいレッスンを受けたため、肺結核に罹りそのまま倒れる劇団員もいたのです。
戦争は終わってもまだその影響は残り続けけたのですね。
そして1946年(昭和21)。
海軍のあとはアメリカ軍に接収されていた宝塚劇場が、ついに戻りました。
「戦争はもう終わったんや! 宝塚がまた見られる!」
4月、宝塚公演再開の報を受け、ファンたちは切符を手に入れるために奔走します。
綺羅びやかで浮世離れの世界。
戦時中あきらめていた夢が、また見られるのです。
「戦争はもう終わったんや! 宝塚がまた見られる!」
チフスの流行で公演の延期はあったものの、22日についに開幕します。
演目は『カルメン』と『春のをどり』。
三階建ての大劇場を埋め尽くした観客の前で、この日舞台を踏んだ総勢56名がかけ声とともにラインダンスを踊りました。
その日の観客席には、小林一三もいました。
元大臣として戦後公職追放されていた彼は、いきいきと踊る乙女たちの姿を見て、生気を取り戻したのです。
彼女らは、再びこの舞台を踏める日を夢見て辛いばかりの戦火をかいくぐってきました。
私も負けてはいられない……。
かくして関西財界人のレジェンドたる小林一三も決意を新たにし、戦後復興の道を歩むことになるのでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
玉岡かおる『タカラジェンヌの太平洋戦争(新潮新書)』(→amazon)