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【竹鶴政孝(マッサン)とリタ】
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帰国、そしてウイスキー作りへ
かくして、新婚の竹鶴夫妻は日本に帰国しました。
「まさか、スコットランドから嫁さんまで貰ってくるとは……」
周囲の人々は唖然としました。
声高に反対するというよりも、一体どうしたらよいのかわからない、困惑といった反応です。
一方で「いや、むしろ竹鶴君は素晴らしい。これからは国際化の時代だ、率先して国際結婚とはえらいことだ」という反応もありました。
気になるのは竹鶴の母・チョウではないでしょうか?
ドラマ『マッサン』では、泉ピン子さんがとんでもなく嫌味でイジメ連発の母親として描かれております。
が、それはあくまでフィクション。
史実のチョウは、おっとりとした心優しいの女性。はじめこそ反対したものの、やがて息子夫妻の結婚を受け入れています。
愛妻家の竹鶴は、帝塚山に瀟洒な洋館を用意し、そこで新婚生活を始めることにしました。
できるだけ生活様式を西洋風にして、妻の負担が少なくなるよう気を遣っていたのです。
例えば和式便器。
リタにとっては到底なじめないものです。
洋式トイレとイギリス式暖炉と煙突のついた洋館に、夫妻は落ち着きました。
竹鶴夫妻が英国流のアフターヌーンティーを飲んでいると、周囲から「お高くとまっている」等と言われることもありました。
夫として精一杯リタに気を遣っていただけです。
彼女にプレゼントをするときは、一筆添え、料理のことも常日頃から丁寧に褒めました。
互いに尊敬し合い、気遣う。そんな理想の夫婦でした。
リタも、日本という国に溶け込もうと努力を重ねました。
竹鶴は晩酌には日本酒を好んだため、日本料理、漬け物、塩辛の作り方を覚え、酒に合うつまみを何品も作りました。
しかし、竹鶴の夢は思わぬ暗礁にのりあげます。
第一次世界大戦後の不況のため、摂津酒造ではウイスキーどころではなくなったのです。
竹鶴は辞職し、化学教師として教鞭をとりました。
このときはリタも英語教師・英会話・ピアノ教師教師として働いています。
しかしこの生活も、程なくして終わりを迎えます。
洋酒製造販売業者・壽屋(現在サントリー)社長の鳥居信治郎から、三顧の礼をもって迎えられたのです。
いよいよ、ジャパニーズウイスキー誕生へ向けて、物語は大きく動き始めたのでした。
妥協のないウイスキー作りを求めて
竹鶴が壽屋で働き始めた1924年(大正13年)、夫妻には悲しい出来事が起こりました。
リタが妊娠したものの、流産してしまったのです。
妻の傷心を癒すためか、翌年二人はスコットランドに帰郷しています。
夫妻は1930年(昭和5年)には山口広治・シゲ夫妻の子供である房子を養子に迎えています。
このとき、リタと政孝の頭文字をとり「リマ」と改名させました。
ただし残念なことに、夫妻と養女リマの折り合いは悪く、余市に移った後に家出をしてしまいます。
壽屋でのウイスキー事業も、なかなかうまくいきません。
技術の問題もあるのでしょうが、そもそも熟成を待つだけの期間が不足しており、竹鶴が手がけた商品は軒並み失敗してしまうのです。
竹鶴は、ウィスキーからビール製造部門へ異動となりました。
が、同部門を彼の承認なしに売却されたこともあり、徐々に不満を感じるように……。
竹鶴の元では、壽屋の後継者である鳥井吉太郎はじめ、若い技師たちも育っていました。
『そろそろ、妥協のないウイスキー作りに挑むべきかもしれない』
そう確信した竹鶴は、壽屋を円満退社し、北海道への移住を決めました。
北海道は、地形も、風景も、気候も、リタの故郷であるスコットランドに似ています。
ウイスキーにとっても、愛妻リタにとっても、素晴らしい土地だったのです。
スモーキーフレーバーを求めて
北海道でウイスキーを作ることは、竹鶴の悲願でした。
壽屋時代、蒸留所候補地として北海道をすすめたものの、輸送コストや工場見学が難しいことから、反対されていたのです。
寒冷な気候のみならず、ウイスキー作りにはぴったりの土地。
というのも「ピート」(泥炭)を採取できたのです。
ピートとは、枯死した湿地植物などが炭化した石炭のことです。
水分が多く燃焼効率が悪いため、使いにくく価値が低いものでした。
これがどうしてウイスキー作りに使われるようになったかというと、まったくの偶然です。
古来よりスコットランドは、イングランドの厳しい支配により重税を課され、苦しんできました。
ウイスキー作りは、苦しい家計を救うための産業。
製造業者はコストカットを迫られ、その中で目を付けたのが価値の低いピートでした。
誰も見向きもしないピートで穀物を乾燥させたら、コストカットができるというわけです。
そうして作ったウイスキーからは、独特の香りがしました。
「スモーキーフレーバー」です。
コストカットの副産物であったスモーキーフレーバーは、スコッチウイスキーの大きな特徴となったのでした。
このスモーキーフレーバーは、しかし、好みが分かれるものでもありました。
英国でも苦手とする人がいるぐらいで、日本人からは「焦げ臭い」と敬遠されがち。
それでも、なるべく本場に近づけたい竹鶴としては、この香りのこだわりを捨てるワケにはいきません。
ただ、現実的な問題もありまして。
いきなりウイスキー作りだけで会社を経営することもできません。
そこで竹鶴が目を付けたのが、余市のリンゴでした。
余市は旧会津藩士が入植してできた町で、日本で初めて西洋リンゴの栽培に成功した土地でした。
ニシン漁も盛んでしたが、これが不漁続き人手が余っている状況。
そんな余市で、まずリンゴ果汁を使った製品を作る。
そこから事業をスタートさせようとしたのです。
「大日本果汁株式会社」設立
1934年(昭和9年)。
竹鶴は「大日本果汁株式会社」を設立しました。
「リンゴの搾り汁を竹鶴さんのとこさ持っていけば、金さなっぺ!」と、当時余市の人は思っていたそうです。
ニシンの不漁と、大火災からの復興に苦しむ人々にとって、とてもありがたいことでした。
酒造免許を取得する以前に、この会社が作っていたのは、
・リンゴジュース
・リンゴゼリー
・リンゴケチャップ
といったリンゴ加工品です。
しかし、当時はリンゴ果汁に含まれるペクチンによる凝固問題がありました。
凝固が発生すると濁ってしまい、腐っているのではないかとクレームがついてしまうのです。
竹鶴の妥協しない性格はリンゴ製品についても発揮されたのですが、そのこだわりが製品の見た目を悪くしてしまったのです。
なかなか売れず、竹鶴は苦悩します。
リンゴ加工に苦労しながら、竹鶴は並行して技術者育成、ポットスチル導入を進めていました。
アップルワイン、アップルブランデーの製造も始まり、次は念願の妥協しないウイスキーです。
昭和15年(1940年)、念願のウイスキー作りが、余市蒸留所で始まりました。
ただし、このころ日本は、出口の見えない戦争へと突き進んでいたのでした。
私の目と髪が黒かったら……
ウイスキーを作り始めたころから程なくして、日果の工場は海軍監督工場となり、配給品を作り始めました。
カウン家の人々は厳しい国際情勢を心配し、リタを呼び寄せようとしました。
しかし、リタは余市に残ることを選びます。
家族の懸念は、不運にも的中してしまいました。
「鬼畜米英」のイギリス出身であった彼女は、日本に帰化していたにもかかわらずスパイ扱いをされ、四六時中特高警察から尾行されたのです。
それだけではありません。
心ない人はリタの陰口をたたき、子供は石を投げました。
愛用のラジオすら、スパイの道具だとみなされ、調べられたほどです。
母国とのやりとりも、当然一切できなくなりました。
「私は日本人なのに、どうしてスパイ扱いをされるの? この目と髪を黒くして、鼻を低くしてしまいたい……」
泣きながらそう訴えるリタ。
「リタ、きみは間違っていないよ」
竹鶴は、そう言って抱きしめるしかできませんでした。
敵国人の娘とみなされたリマも、母親に反発したのでしょうか。
親子の仲も決定的に悪化してしまいます。
そして戦時中の1943年(昭和18年)。
政孝の甥である宮野威(たけし)が新たな養子として迎えられました。
広島高等専門学校発酵工学科出身の威が、後継者候補となったのです。
そうはいっても、威は軍事用アルコール作りや学徒動員に行くこととなり、北海道へ来るのはその2年後、終戦直後まで待たねばなりません。
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